ことばを使うことについて

私は言葉を使うことに苦労してきた。子どもの頃から口数自体は多かったが、人々との言葉を使った相互作用には難を抱えていた。

言葉が対人関係に及ぼす影響については無関心になりがちでほかの人もそうだろうと思っていたため、約束や言ったことをすぐに忘れていたし、発言に対する責任も無く言い直せば済むと思っていた。気に入った体系や語彙を繰り返し用いたがり、その適用範囲をなるだけ拡大しようと試みる。私の場合自分の好きなものが世界一価値があって偉いと思い込みやすいし、それが思い込みでも醒めようという気がない。今でもこれはあまり変わっていない。
話すテーマも連想的に次から次に移り変わり、文章にも筋がない。思想家になるならばちょっとアレだ。

私が何かを書く同期と言うのは「納得がいかない」と言う類のものが大半で、誰かさんが言っていたように「物を書かないという人格に欠けている」からだ。

何かにつけ意見を言い、ただでハイとはいわない。対人関係や場のルールに無条件に配慮するなんてことはない。中学・高校くらいはその場でハイと言って適当に済ませていたが、結局それをどこかに書き付けて、世の中でそれを実験し、納得のいくまであれこれ試すのだからなるべくその過程をショートカットしようと試みたら永遠の2歳みたいになってしまった。(笑)

生きるためには食べ物が必要で、、(中略)結局世間に合わせるのが手っ取り早いという流れの話には抜け道がないわけではないが非常によくできている。しかしその中でより資源にアクセスしやすいものとそうでないものが戦争の肯定と形式的にはほぼ同じような「力の論理」でできていると考えるとそれを選択するのは思考放棄で、記憶の死で、堕落だと思ってしまう。高校生の頃は心の底では否定しつつも、なぜみんなそれに合わせているのかただ純粋に疑問に思っていた。そして彼らには皆さんおなじみの、「身の回りの生活を否定することと、世の中の価値観を否定すること」が一緒くたになった世界観があった。これも非常によくできている。しかし私たちは言葉の世界と生活世界を強く結び付けた独特の複合現実を生きる生き物であるため、これらの関係の世話をする必要がある。だから単なる叫びや支離滅裂な詩でも、それは立派な生活的行為である。雰囲気や人間関係が仕事の能率を変えるなんてのがわかりやすい話だ。

言葉自体なんてものはどこにもなくて、それが音や光のパターンとして生活の場に染みつくことに意味がある。言葉が世界を変えるんじゃなくて、言葉は世界そのものだからだ。たとえそれが雄たけびであっても。絵や図形だって、私たちの生活に何かの影響を与えていれば私は言葉だと思う。

潜在化した言葉もある。他者には光や音として認識されない、ただ体の動きのパターンとしてのみ見られる言葉。言葉が生まれ、死んでいく記憶と言う場。それは「思い(重い)出」の名の通り身体丸ごとのシチュエーションの中にある。会話が’’弾む’’のもこのバネのおかげ。時空の認識は言葉の場と生活の場の接面にある。「間の宇宙論」を用いて前者をσ、後者をΣとすると、σは時空を前提にしているが、Σは「時空をゆがませる」ことが簡単にできる。σとΣも相互関係があって、純粋なσなんて概念上のものだから実質σも時空をゆがませるのだけれど。楽譜や数字を扱うことが身体の動きのパターンを書き換えるように。潜在化した言葉と言うのは、記憶のばねが共鳴しなければ非常に共有しにくい。生活の場と密着した言葉が多いのは便利だけれど、言う方と言われる方の齟齬の解決も生活の場に持ち込まれやすい。討論や議論は憚られ、清くて強いものの発言に価値がある。特にウチとソトに分断された「個人」がソトの方で言葉を自らの判断道具として使うことは「個性」とか「多様性」の語で例外扱いされるように非常にまれなことだ。

これはまるで日用品のようだ。多くの人にとって、生活に便利な言葉にこそ価値がある。彼らにとっては中東の戦争について話すことが価値を持つことなど、石油の輸入が止まってあったかいお風呂に入れなくなるかもしれないという不安がよぎったときだ。それ以外は生活の場の出来事ではないから、ないも同然だ。
でも、言葉を本当にテクノロジーとして使うならもっと便利な形になっていてもよいのになあと思ってしまう。だから私はその不便さのあまり、「間の宇宙論」という巫女か占い師が使う霊媒道具みたいなのを開発するハメになった。本当に洗練された俳句が高いレベルで役割を果たすときはこれに似てるのかも、とか思ったりもしている。


ショーペンハウアーは精神を持った者の思索、魂のある言葉以外をくそみそに言っているのはしょっちゅう言葉を音楽に例えたがることからも音楽ファンだったのではないかと思う。ウィトゲンシュタインもピアノが好きだったように。「しょうもないことをやたら高尚で耳慣れない言葉で語る」ことへの非難は「大した中身の無いフレーズを魂の無い弾き方で指をやたら回して偉そうに弾く」ことへの嫌悪感と似たところがあって、それは端的には
「ジェントル万歳!!」「音楽・言葉は、魂だ!」なのかもしれないが
「大した用もないのに騒ぎ立てる」ような子どもじみた感じも悪くないように思える。小さなことにも大きく感じて大騒ぎしている方が人生は長く楽しくなりそうだからだ。

なんてことないことしか書いてないけど、読んでくれてありがとう。お疲れさん。







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