人間の多くは「それ」を無かったことにすることによって私たちはいくらか楽に過ごしている。それについて、問い直すことは憚られる。あそこにある柵は、本当はこちら側にあるもので、柵自体は単なる象徴に過ぎない。つまり、本物に似せたおもちゃである。彼らはそれを囲うために「人格」というもっともな語で統一、いや、本当は散逸させているように私には感じられる。「意味わかんない」「怖い」と、塊のような「それ」を本当に切り込んで語ろうとせず、皆で撫でまわして腐敗臭を漂わせている。「実在」や「根拠」にしがみつき、真実を語るが「それ」については語ろうとしない。「それ」は子どもやある程度の年齢を過ぎた「成熟した」大人のみが語ることを許される。私のような若者が、例え「それ」についての洞察をしたところで、嘘にしか、言い訳にしか聞こえないだろう。しかし、いくら年老いても、多くを経験して多くを見、多くを聞いても「それ」について語られるのはほんの僅かで、しかもその内容は「私は「それ」を散逸させられる」もしくは「私は「それ」の実を知っている」という内容に収束される。多くの人は「それ」を決して囲いから出してはならないという。「常識」は「それ」を嘘で塗り固めるためのものだ。唇と腰椎の関係。少年の頃、彼はそれを引っぺがしてすべてを赤裸々に語った。多くの大人が頭を痛めた。人気者だった彼から、人々が離れていった。多くの人が「赤裸々」なんて呼ぶものはそれが一般に言う「下品なもの」であったとしてももうすでに幾重にも羽衣を纏った「文化」であって「本音」を語ったとしてもそれは目をそらすための手段にに過ぎない。少なくとも当時はそう思っていた。彼は「それ」を嘘で塗り固めて過すことがおそらく人一倍得意だった。しかし、「散逸」はしていなかった。「それ」が薄く延ばされて外から2枚目の衣まで浸透したりはしなかった。
「それ」は何なのか。「AはB」でしか話せなくなった人々はじれったそうに、けげんな顔をして、「もったいぶっているのか」「難しいことを言ってこちらを困らせようとしているのか」となる。彼は時々、「困ってしまえ」と思う。人を恨み、人を殺し、人を卑小に、臆病にする「それ」。少年の翼を折り、少女の脚を折り、青年を争わせ、夢をかき消す。「それ」はAとBの間に巣くうものである。構造が裏返ってしまうから、もう「それ」の裏側しか見ることができない。「間」は「魔」でもある。そこに住むことを許されるのは翼を残す代わりに足を折られた者たちか、翼を捨てて歩むことを決めた者たちだ。「約束を守らない」ことは自然科学的にはあり得るのに、「それ」があるせいで「ありえない」ものになる。
「魔王」
彼の目的は翼と足を持ったまま「間」、いや「魔」の領域に踏み込んでいき、その領域を拡大していくことだ。人々を切り裂くと見せかけて本当に温かい愛でつなぎ、現存在としての人間を解放していくことなのだ。



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