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斎場御嶽〜琉球の信仰を通じて感じられる人類の信仰〜

 夏の沖縄の日差しは、太く鋭い。身の危険を感じるほどだ。
 それにも関わらず、空気は若干の湿気を含み、頬を伝う風には重みがある。僕は、沖縄特有の気候を文字通り肌で感じている。

 沖縄に来て4年が経とうとしている。地縁もなければ、それまでに観光で訪れたこともなかったが、漠然と「今までもこれからも行きそうにない場所で生活をしてみたい」という感覚が僕を沖縄に連れてきた。
 そんな中、最近久しぶりに訪れた斎場御嶽について、備忘録も兼ねて感じたこと、考えたことを言葉にしていこうと思う。

1 世俗と信仰の間で

 斎場御嶽の発券売場周辺は、観光地としての体をなしており、観光客もそれなりにいる。発券売場の隣では、観光地らしく、ブルーシールアイスクリームも販売されている。
 熱中症対策という名の下、僕はコーンなしのアイスクリームを購入した。アイスクリームをベンチで平らげると、看板の案内書きに従い斎場御嶽の入り口に向かって歩きだす。横断歩道を渡り、駐車場がある側の反対の歩道へと渡り、坂道を少し登ると、お目当ての斎場御嶽へと向かう一本道が現れる。一本道の両端には、パワーストーンなどの観光客用の路面店やカフェ、そして現地の人の住居、老人ホームが混在としている。
 これらの観光客用の店や現地の人の生活を脇目に、斎場御嶽の施設の入り口に到着し、入場チケットを渡すと、御嶽のパンフレットを渡された。そのパンフレットには御嶽鑑賞のマナーについての注意書が記載されていて、信仰と世俗の間での運営主の葛藤が垣間見られた。

2 斎場御嶽とは

 御嶽とは、琉球の神々を祀る場であり、各集落に今も存在し、実際に祈りの場として人々の生活の一部として機能している。斎場御嶽は、その中でも琉球王朝時代には国家的な儀式が催されていた場であり、格式高い場所だ。
 斎場御嶽の管理者の敷地内に入り、舗装された道を少し歩くと、柵で隔てられた小径が見える。ここは琉球王朝時代の参道であり、当時はその参道の先にある泉で、身を清めてから参拝をしていたらしい。
 その参道を脇目に通り過ぎ、少しばかり舗装された階段を昇ると、道の傍に海を望むための空間があるが、ここは久高島を見るためだけに設けられたスペースである。久高島は斎場御嶽からみて東側に位置する島であり、太陽が昇る場所に位置する島として、かねてから御嶽参拝者にとって崇拝の対象となっている島だ。
 僕は、この久高島を見るためだけに設置された空間から、琉球の太陽崇拝の文化を感じることができた。

3 御嶽へと続く道で

 久高島参拝場を後に、道なりに進むと、いよいよ御嶽がある場所に向かい道はさらに細く険しくなってくる。道は、階段状に段差が設けられており、御嶽がある森の中へ続いている。その階段を一歩づつ登っていくと、日差しは木々に遮られ、あたりは徐々に暗くなる。
 歩みを進めることに集中しようとするが、日差しが遮られた空間に不安を感じ、太陽の位置を確認しようと上を向くと日差しは沖縄の木々の間からわずかばかりこぼれるだけだ。構わず歩みを進めるのだが、今度はその暗がりの中を、風に揺れる葉の擦れ合う音が占めていることに気づき、何か人間より大きな存在に意識が持っていかれ、さっきまであったはずの世俗の空気が徐々に薄らいでいく。あたかも淡水から海水へと泳ぐ魚のように、僕はこのとき確かに、世俗と信仰の場の境目を進んでいた。
 さらに歩みを進めると、葉の擦れる音に鳥の囀りの音が混ざり、非日常的な大きさの岩がところどころに現れ、目的地であった御嶽へと辿り着いた。斎場御嶽の岩は圧倒的に大きいのであるが、その肌質は冷たくきめ細かく、無骨さはそこにはない。誰かの作為によってこのような物体が生み出されたようにすら感じる。
 日常の中で決して見ることのない圧倒的な岩や森そして太陽。これらと有機的につながっていると感じさせる風、木々そして鳥などの生命の存在を五感で感じ、僕は古今東西問わず人類が今までなぜ自然を信仰して来たのかがわかった気がした。

御嶽へと続く道で撮影した沖縄の木々

4 原初的な信仰にしかないもの

 御嶽には、信仰の精神作用がほぼそのままの形で残っている。
 それはつまり、信仰という精神作用が社会化・形式化されていないということだ。国家などの組織的な権威と結びついた信仰の場は、その生身の信仰の精神作用を追体験することが難しくなる。社会化・形式化されたものや行為には、生身の人間の感覚が象徴化される結果、当初の形をとどめていないからだ。そのため、第三者がそれを目にしたときに、前提知識がなければ咀嚼することができなくなる。
 御嶽の文化も、数百年とときを経ている以上、社会化、形式化されたものが全くないことはないであろう。実際に斎場御嶽は、琉球王朝の権威ある儀式を執り行う場所であった。しかし、それでも既存の他の信仰の場と比べた場合、その要素が格段に薄いといえる。その結果、何ら予備知識のない僕にも、少なくとも、信仰の精神作用を追体験できたと感じられた。
 この種の信仰は地域に限らず古来から人間が大事にしてきた精神作用であるはずだ。現在の沖縄の斎場御嶽という場所で、太陽の位置に意識を持っていかれ、風に揺られ擦れ合う木々の葉音に空間を占領され、自分よりはるかに大きく荘厳な岩に辿り着いた僕は、人類の信仰の原初的形態を確か見たのだ。

 その後、御嶽のある森から一歩づつ外に向かって歩いていくと、日差しを遮っていた木々はなくなり、葉が擦れる音も消えていった。
 そして、出口から外に出て、来た道を引き返していると、「聖なる石」を販売している路面店を見て、僕は無事世俗に戻ってきたことを実感した。


斎場御嶽の岩々

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