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「犬よりも豚の方が知能が高い」って知ってました?


犬を飼って4年が経とうとしている。
1頭かって、めちゃくちゃ可愛いので2頭目も飼っている。

あるとき、犬よりも豚の方が知能が高いことを知る。

うちの犬は、呼びかけに応えるので、どうやら一定の意識的なものがあるように思える。
ということは、豚にもそれ以上の意識的なものがあるということ。
しばしば彼らを食べるということの残酷さを想像するようになってしまった。

アニメでいえば寄生獣や、約束のネバーランドなど「捕食の対象としての人間」をテーマにしたものは結構多い。
それらの作品で表される捕食される恐怖を、人間ほどくっきりとではないにしろ、豚ちゃん達も感じているとしたら。
無意識のうちに見て見ぬ振りをしている自分。。。

今や人間の文明の力を持ってすれば、家畜を殺さなくても、人間が生きていくのに必要十分な栄養分は他のもので代用できるのではないか。
そうだとすれば、我々が家畜を食べるのは、自分たちの欲を満たすために、必要のない殺生をしていることになり、罪深いことなのではないか。
ここまで考えておきながら、それでも肉を食べることの喜びに罪悪感を混じらせたくないという怠慢と、どうせ私が考えても何も事態は変えられないという言い訳から結局は思考停止になる。

私は思考停止になったが、世界の革命家たちはどのような行動をしているのだろう?とググってみる。

すると、これからの世界の人口増と、その人口の生活水準の向上から、食糧不足がくるという大きな課題意識のために、人工肉培養市場は非常に有望であるらしい。
幹細胞培養技術を用いて、環境に負荷をかけず、動物の幸福も傷付けず、人間にとっても疾病リスクのないという、いいことだらけの話。
巨額の投資マネーも入って数十年後には一般流通するような体制になりそう。

ということで、「犬よりも豚の方が知能が高い」ということから発展した食肉に対する私の罪悪感は、この瞬間も誰かが解決に向かって取り組んでくれているという希望によって大分緩和された。

これってめちゃくちゃすごいことだと思う。

もしも、科学文明が発展していなかったら、ずうっと後ろめたい気持ちで、どこか割り切れなさを抱えながら、残りの人生の食事をせざるを得ないことになっていたところだ。
しかし、今や私の気持ちは「そのうち解決される問題だから、私が悩む必要のない問題」と思えるようになった。
厳密にいえば、今日も明日も当面の間、食べるであろうお肉は、牛や豚や鳥の死の恐怖の上に成り立っているものであり、本来は気持ちよく頂くことのできないものである。
しかし、もはや、全く解決できないどうしようもない問題から、そのうち解決されるであろう問題へと様変わりし、自分に都合の良い思考に長けている自分であれば、日に日に考えることもなくなっていくだろう。

ということで忘れてしまう前に、鳥さん、豚さん、牛さん、命をありがとうございます。心から感謝してます。

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