久野暲の機能的構文論をぜひ読んで欲しいという話
twitterでまつーらとしお先生が「言語学な人々」というアドベントカレンダー企画(https://adventar.org/calendars/6885)を発起し呼びかけているのを見かけたのが11月21日の出来事。錚々たる面々に圧倒されつつも、せっかくなので、と参加させて頂きました。
とは言ったは良いものの、はてさて何を書けばいいのやら。悩んだ末、たどり着いた結論は「そうだ、久野暲の布教をしよう」でした。
久野暲先生は、機能的構文論(Functional Syntax)という分野(枠組み?)の第一人者である言語学者です。そして、僕が大大大好きな言語学者でもあります。
この記事では、久野先生の論文を3編取り上げて紹介していきます。特に、過度に技術的な内容は避けつつ、久野言語学の「勘所」(だと僕が思っているところ)が伝わるように説明を試みてみたいと思います。言語学の背景知識がない人でも理解できるように出来る限りの補足も加えていきますし、3つの論文はそれぞれ独立しているので気になるところだけ「つまみ食い」することもできます。「詳しいことは知らんが言語学が気になってる」という方からガチ勢の方までご笑覧頂ければ幸いです。
1.「関係節のテンス」(1973)
最初に取り上げるのは、久野先生の主著の1つ『日本文法研究』に収録されている「関係節のテンス」という論文です。この論文は様々な例文を駆使して言語表現の細かな違いをあぶり出すという、言語に触れることの醍醐味が特に分かりやすく体験できます。
1.1.議論の出発点
一般に、英語では主節の動詞と関係節の動詞が、時制(テンス: tense)の点で一致します。そのため、主節動詞が過去形になっているときは、関係節の動詞も過去形にしなければいけません。
(以下、例文冒頭の「*」は、その文が文法的におかしい(=非文法的である)ということを意味します)
(1a)では主節の動詞(=took)と関係節の動詞(=was)が過去形で一致しています。一方、主節動詞の時制(=took)と関係節の動詞の時制(=is)がずれている(1b)は非文法的です。
一方、日本語は一見すると主節と関係節の間で時制の一致が無いように思われます。
(2b)では、主節動詞(=取り上げた)が過去形であるのに対して、関係節の動詞(=読んでいる)は現在形になっています。それにも関わらず、英語の場合(=(1b))とは違って完全に適切な文法的な例になっています。
以上の対比から、日本語について次のような一般化を導きたくなるかもしれません。
この論文は(3)の一般化が間違っているということを、様々な例文を用いて示していきます。
1.2.関係節における時制
久野が挙げる第1の例は、関係節の述部が形容詞である場合の例です。
述部が形容詞の場合、関係節の述語は必ず現在形を取ります。
もう1つ別の例を見てみましょう。久野は、関係節の動詞が現在形になるか過去形になるかで文の意味が変わってしまう例を指摘します。
(5a)は「太郎は散歩中、人に会うたび皆に話しかけた」という意味になります。これは不特定多数の人に話しかけたという意味です。
一方(5b)では「太郎は、以前道で出会ったある人物に話しかけた」という意味で解釈できます。これはある特定の人物に話しかけたという意味です。
このように、現在形と過去形とで意味が変わってしまう例というのは「関係節の動詞の時制を(意味を変えずに)”自由に”入れ替えるわけにはいかない」ということを示す例だと言えます。
1.3.まとめ
久野は、このほかにもいくつかの例を挙げて(3)が誤りであること、すなわち、日本語の関係節において時制は必ずしも自由ではないことを論じていきます。
この論文の面白さは、何と言ってもまず例文作りの巧みさにあるのではないでしょうか。一見すると「現在形も過去形も変わらないじゃん」と言いたくなる関係節の時制について、それが文法的に重要な差であることを示す手際は鮮やかです。
特に(4)は文法的/形式的な側面(述部の品詞)に着目しているのに対して、(5)は文の意味的側面に着目しています。こうした、様々な角度から検討された豊かな例文に基づく議論は圧巻です。
2.「日本語の類型論的特徴」(2007)
続いて紹介するのは、「日本語の類型論的特徴」という論文です。この論文では、日本語が示す言語類型論的な特徴を取り上げて、それらが文処理上の負荷という観点から導かれることを示します。
2.1.議論の出発点
世界の諸言語の中で日本語の特徴を考えると、日本語は以下のような言語類型論的特徴があると言えます。
(※このことは、「日本語”だけ”がSOV語順を持つ珍しい言語だ」となどといったことを意味しません。単に「SVOではなくてSOVのタイプに分類できる」という意味です。)
(1b)の例としては関係節の語順が挙げられます。
この論文では、日本語が(1a)と(1b)の2つの特徴を兼ね備えていることは単なる偶然ではなく、知覚処理上の理由から考えて当然の結果であると主張します。以下、2.2節では議論の前提となる「中央埋め込み」という概念について簡単に触れます。その後、2.3節で久野の提案を概観します。
2.2.中央埋め込み
以下の2つの文を比べてみましょう。
(3a)と(3b)は同じ意味を持つ文ですが、語順が異なっています。恐らく、(3a)よりも(3b)の方が読みやすいのではないでしょうか。これは何故でしょう。
(3a)では、対応関係にある2要素の間の距離が離れています。例えば「太郎は … 読んだ」や「花子が … 思っている」などの間の距離です。この理由は、文の真ん中に次々に新しい要素付け加えていることに拠ります。こうしたことによる複雑な文を「中央埋め込み」構造を持つ文と呼びます。(※より正確かつ詳しい説明は久野の原典ほか関連文献を参照してください)
一方、(3b)では主述の対応関係にある要素の距離が近く、中央埋め込み構造にはなっていません。
一般に中央埋め込み構造を持つ文は、そうでない文よりも読みにくいと言われています。
2.3.SOV語順と[修飾-被修飾]語順
久野は、日本語がSOV語順を示すことと、[修飾-被修飾]語順を持つことは単なる偶然ではない、と主張します。
久野は、SOV語順においては、[被修飾-修飾]語順のよりも[修飾-被修飾]語順の方が読みやすい(知覚上の困難が最小限にとどめられる)と主張します。したがって、日本語が示す2つの特徴(SOV語順 / 修飾-被修飾語順)を持つことは、知覚上の困難を最小化するという点からみると、必然的に導かれる結果だ、と考えることになります。では、このことが妥当であるかを確認してみましょう。
(4a)は試しに「SOV語順 + [被修飾-修飾]語順」にした仮想的な例です。この語順では、主述関係にある2要素(「少年…嫌っていた」)の間に関係節(=メアリーが愛していた)が割り込んでしまっています。すなわち、中央埋め込みの構造をもちます。
一方、(4b)は「SOV語順 + [修飾-被修飾]語順」の例、すなわち実際の日本語の語順の例です。この語順では(4a)のような中央埋め込みは生じていません。
以上のことが示すのはSOV語順では、[被修飾-修飾]語順よりも[修飾-被修飾語順]の方が読みやすい(知覚上の困難が生じない)ということです。言い換えると「SOV語順言語が中央埋め込みを避けようとすると、必然的に[修飾-被修飾]語順を選ぶ」ことになります。したがって、日本語がSOV語順であることと、関係節が名詞に先行することの間には知覚処理上の必然的なつながりがあると言えます。
久野はこのほかに、目的語に関係節が付加している場合についても検討しています。また日本語以外の言語についても少数ながら検討しています。これらの例は、ぜひ原典に当たって読んでみてもらえればと思います。
2.4.まとめ
以上の議論は、日本語が持つ2つの特徴(SOV語順であることと、修飾語句が被修飾語句に先行すること)を知覚処理上の困難という点で結びつけようとしています。ここに、言語をコミュニケーション機能等の観点から捉えようとする視座が伺えます。こうした立場は機能主義(Functionalism)と呼ばれますが、機能主義的な文法研究の1つの事例として面白い論文だと思います。
3. ”Two Topics on Discourse Principles” (1978)
最後に、英語論文から1つ紹介したいと思います。”Two Topics on Discourse Principles”と題されたこの論文では、語順や数量詞の作用域といった多様な文法現象を取り上げて、それらにかかわる談話的な諸制約を検討しています。
ここでは特に、情報の流れの原則に関する分析の要点を紹介し、形式面と機能面の両面を見据えた久野言語学の特徴を紹介したいと思います。
3.1.議論の出発点
英語に限らず、多くの言語では「知っていることから知らないことへ」、すなわち「旧情報から新情報へ」と文要素を並べていくことが自然な語順であると言われます。以下の受動態の例を考えてみましょう。
(文頭の「??」は、その文が不自然な文であることを示します)
(1a)では、Johnという既知の人物から文が始まり、a mugger(強盗)という未知の人物で終わります。このことは、a muggerが不定冠詞a(/an)を伴うことからも分かります。したがって、(1a)は「旧から新へ」という情報の流れの原則に従っています。(ここでは、固有名詞は旧情報であると考えておきます)
一方(1b)は、未知の少年(a boy)から文が始まり、既知の人物Johnで文が締めくくられます。これは情報の流れの原則に違反するため不自然な文になってしまいます。
このような例をみると「文は旧情報から新情報に流れるのか!ふむふむ!」と思いたくなります。しかしながら、ことはそう単純には行きません。今度は、能動態の例を見てみましょう。
特に(2a)に着目してください。この例は新情報(a mugger)に始まり、旧情報(John)がその後に続きます。言い換えると「新から旧へ」の語順になっています。したがって(2a)は情報の流れの原則に違反しますが、それにも関わらず文法的です。
以上の観察は、以下のようにまとめられます。
これは、なぜでしょうか?
3.2.談話法違反の「意図性」
能動文と受動文では情報の流れの原則への従い方が違います。このことを捉えるために、久野はこれら2つの文の「作り方」と関係性に着目します。
学校文法等でもときおり見られるように、ほとんどの場合、能動文と受動文は相互に書き換えることができ、対応関係があります。
特に、生成文法(Generative Grammar)の枠組みにおける統語論では「受動文は、能動文をもとにして、それに変形規則(≒書き換え)を適用して作る」と考えます。この意味で、能動文は「基本形」であり、受動文はそこにひと手間加えて作った派生形だと言えます。
(※厳密に言うと、この説明は大嘘です。が、ここでの議論には差し支えないため詳細は割愛します。興味のある方は中井・上田(2004: 2章5節)の解説など、信頼できる専門文献を参照してください。)
このことから、次のことが言えます。
そして、この「ひと手間」が重要な意味を持ちます。久野の以下の提案を見てみましょう。
(5)は少々回りくどい言い方をしていますが、要点は「手間のかかっていない文は談話法規則に違反しても良いけど、手間のかかった文は違反しちゃだめ」ということです。今まで見てきた例でいうと、手間のかからない能動文は情報の流れに違反しても見逃してもらえますが、わざわざ手間をかけている受動文は情報の流れに違反することができないということです。
以上を踏まえて、先ほどの例を再確認しましょう。まずは能動文です。
これらの文はどちらも「手間のかかっていない」能動文です。したがって、情報の流れの原則に違反しても、特に悪さは生じません。
一方、受動文の場合を考えてみましょう。
(6)では、(非意図的に)談話法規則に違反している能動文を、「ひと手間かける」ことで旧から新への語順の文に作り替えています。こうした例は問題ありません。
一方、(7)では、能動文の時点で既に「旧から新」の語順が成り立っています。これにわざわざ「ひと手間」をかけることで、逆に情報の流れの原則を破ってしまっています。こうした「意図的な談話法規則違反」は許されない、というのが(5)の仮説の述べるところです。
以上のようにして、久野は情報の流れの原則が破れる場合と破れない場合との差を説明します。特に、文を作るプロセス(より専門的に言うと「派生 (derivation)」)という文法的・形式的な概念を手掛かりにして、これらを峻別している点が画期的だと言えます。
形式的な議論と機能主義的な議論との両方に目を向けて、両者の相互作用の中で言語現象を分析していくのは、久野言語学の十八番です。そのような言語分析のアプローチをして、久野は自らを「機能法的構文法研究」と呼びます。そして、敬語に関する論文の締めくくりに、自らの研究について以下のように述べています。
言語の形式面と機能面のどちらかに傾倒するわけではなく、その両方をよく理解し、組み合わせることでより包括的な研究を目指す。そういった、「折衷案型」の議論のスタイルに学ぶところは多いなと感じます。
4.おわりに
以上、久野先生の論文から3編を選んで、その議論のごく一部を簡単に紹介してきました。久野先生の研究は、ここで紹介したものに留まるわけではなく、非常に広大な成果が挙げられています。たとえば、日本語の助詞(「は」と「が」、など)に関する研究や、省略に関する研究。視点や束縛に関する研究などは特に有名な研究でしょう。
(業績一覧に関しては、久野先生の2つ目の記念論文集”Syntactic and Functional Explorations: In Honor of Susumu Kuno” (くろしお出版)を参照してください)。
今回の記事では、こうした特に頻繁に引用される超主要論文はあえて避けて紹介をしてみたつもりです。仮に「久野暲?ああ、省略の人でしょ」などという固定的なイメージを持っている人がいたならば、少しでも払拭できれば
僕の目論見の1つは成功したと言って良いのかもしれません。
もし、久野先生の研究に興味を抱いてくれた方がいらっしゃったなら、ぜひここで紹介した文献をご自身で手に取って読んでみてください。また、そのほかの論文にもぜひ挑戦してもらいたいと思います。
そこで、最後に「ここから先」に向けていくつかおすすめの論文を上げておきたいと思います。
① 久野暲 (1978) 『談話の文法』 大修館
いわずと知れた名著です。日本語の省略と視点に関する研究が収録されています。ぜひ一読を!
②久野暲 (1973) 『日本文法研究』 大修館
本文1節で紹介した論文「関係節におけるテンス」を収録している本です。このほかにも多くの興味深い議論とデータが提示されています。各章が比較的短く、言語学の前提知識もそれほど必要としないためお勧めです。
③ Kuno Susumu and Takami Ken-ichi (1997) “Structural or Functional Accounts?“ In Kamio Akio (ed.) Directions in Functional Linguistics, John Benjamins.
「謎解きの英文法」シリーズでも有名な、久野・高見の名タッグによる論文。生成文法における諸研究(心理動詞、名詞句からの外置、wh句の摘出、Larsonの軽動詞繰り上げ、Mayの作用域原理)をやり玉に挙げて、順に問題点を指摘⇒機能主義的な代案を提示していくかなり「攻めた」論文です。統語論の背景知識が無いと難しい論文ですが、広域にわたるトピックが1つの論文内でコンパクトに収められているという点でお勧め。
④ Takami Ken-ichi and Kuno Susumu (2017) “Functional Syntax“ In Handbook of Japanese Syntax, De Gruyter
高見・久野ペア自身による機能的構文論の入門的解説。英語文献に抵抗がないなら、この辺りから読んでみても良いかもしれません。
参考文献一覧
中井悟・上田雅信 (2004) 『生成文法を学ぶ人のために』 世界思想社
久野暲 (1973) 『日本文法研究』 大修館
久野暲 (1978) 『談話の文法』 大修館
久野暲 (1983) 『新日本文法研究』 大修館
久野暲 (2007) 「日本語の類型論的特徴」 久野暲、牧野誠一、スーザン・G・ストラウス(編)『言語学の諸相―赤塚紀子教授記念論文集』くろしお出版
Kuno Susumu (1978) “Two Topics on Discourse Principle“ In Descriptive and Applied Linguistics Vol. 11., International Christian University.
Kuno Susumu and Takami Ken-ichi (1997) “Structural or Functional Accounts?“ In Kamio Akio (ed.) Directions in Functional Linguistics, John Benjamins.
Takami Ken-ichi and Kuno Susumu (2017) “Functional Syntax“ In Shibatani Masayoshi, Miyagawa Shigeru, and Noda Hisashi (eds.) Handbook of Japanese Syntax, De Gruyter
※この記事は、一介の院生によるものです。内容上不正確な点や誤りが含まれている可能性があります。そうした点を発見した場合は、そっと教えて頂ければ幸いです。