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映画『夢みる小学校』|つまらない大人になってしまう境界線

『夢みる小学校』は、きのくに子どもの村学園に通っている子どもたちの姿を追いかけた、ドキュメンタリー映画です。学校参観に行くような感覚で、世間の「普通」と言われている学校にある違和感を体現できる、そんな映画です。

子どもの頃は夢を語れる機会がたくさんあった。卒業文集、授業の発表、クラブ活動、友だち、親戚、親との会話、漫画やアニメを見ることなど。暮らしの中で当たり前のように「大人になったら〇〇になりたい!」と宣言していたものだ。無我夢中でいろんなことに熱中していたし、時間を忘れて遊んで怒られることなんてよくあることでした。劇中では、子どもたちの笑顔をたくさん見ることができます。ただただ興味があることを純粋に楽しんでいる姿だ。
 しかし、大人になってからはどうだろうか?大人になってからは夢を語るのは難しい。恥ずかしいから?馬鹿にされるから?夢を語ると「何を言っているの?」といった目で見られてしまう。そう、いつの間にか「誰かの価値観」を植え付けられてしまっている。いや、気づくならまだマシだ。それに気づけない大人もいる。もしくは、気づいているけど気づいていないフリをしているのかもしれない。「お前だけ夢を叶えるなんて許さない!」といった村社会の同調圧力もあったりする。
 つまり、ほとんどの大人は胸のうちに隠しているんだと思います。夢という本当の自分の姿を。子どもの対比で表現されるのが大人です。それが「大人になる」ということなのでしょうか。また、多くの子どもは大人が嫌いだったはずだ。なんか大人は楽しそうではなかった、そんな風に感じていました。誰しもに反抗期があったように、とにかく大人になることに抵抗していたのです。

では、なぜそんな大人になってしまったのだろうか?子どもから大人へと成長する過程で共通する「教育」を挙げて考えていきます。日本国憲法の第26条第2項に義務教育が定められています。つまり、全ての国民は学習指導要領に沿って平等の教育を受けてきました。だから、教育から何かしらの影響を受けていることは間違いなさそうで、問題の本質に迫る足がかりを探していきます。
 昨今では「暗記するだけの勉強」が無意味であるという議論がある中で、クリエイティブに物事を考えられる力が必要だと言われています。日本の学校教育システムが作られたのは約150年前(1870年代)です。同じことを同じペースで同じやり方で同じ年齢の子だけでの学級、社会とのつながりがなく、すでにある正解を勉強する画一的なレールを敷いた教育システムが、今でも続いているのです。そして、通知表で相対的な評価を子どもたちは受けます。
 劇中では一般的な公立小学校とは違った様子が伺えます。「国語、社会、算数、理科」といった主要教科を勉強しません。授業は「プロジェクト」と呼ばれていて、その内容も子どもたちが話し合って決めています。例えば「おもしろ料理店」のプロジェクトでは、蕎麦づくりの取り組みについて話し合いが行われていました。会議は子どもたち主体で進んで行き、意見が分かれた時は多数決をするのですが、先生にも一票が与えられます。同等の一票です。先生の鶴の一声で結果がくつがえることはありません。その授業内容は、レシピ本や事典で蕎麦の歴史を調べたり、お店の店主に話を聞きに行ったり、なんと畑を耕して栽培から取り組んでしまうのです。計量するために算数の知識が、蕎麦の歴史を調べるために社会の知識が、店主にインタビューするために国語の知識が、野菜を栽培するために理科の知識が必要になるから、自分で考えて勉強するのです。先生から教わるのではなく、自分から学んでいく活き活きとした姿が写っていました。そして、初めて作る手打ち蕎麦、もちろん上手くいくとは限りません。だけど、子どもたちの顔からは「失敗した…」なんて暗い表情は見られない。「なんかジャリジャリするけど、うまい!」「硬いしまずい~」「俺的には10点!」など、さまざまな意見が飛び交います。
 そう、子どもたちにとって失敗ではなく経験であり、それが学びの本質なのでしょう。正解を教えてもらって暗記しても、そのことを理解したとは言いがたい。「あれもダメこれもダメ」と子どもを注意して、子ども自らが経験して学ぶ機会を摘み取っているから、だんだんと自分で考えなくなってしまう。選択する自由を奪われた子どもは、いつの間にかつまらない大人の価値観に染まっていくのです。

そして、また同じことが繰り返されるわけです。「遊んでないで勉強しなさい」といった感じで。子どもの頃はあんなに遊びに熱中していたのに、いつの間にか遊びが悪いことのように捉えられています。香川県ではゲームで遊ぶ時間を60分に制限するという条例が施行されましたが、どうして夢中になれるものを取り上げるのか、疑問に思います。プログラミング教育が小学校で必修化になったのに、なぜプログラミング的思考(論理的思考力)が育めるゲームを奪うのか不思議でしょうがない。だってプログラミングの最先端はゲームですよ。そもそも「ゲーム」で一括りにするのにも無理がある。「自分が子どもの頃はこうだった」と型にはめたがる大人が多いし、好奇心が乏しいから発想も乏しいのでしょう。
 劇中では、職員室に子どもたちが集まって、ボードゲームやトランプなどで遊んでいたり、大人の膝に乗ったり肩車をしたりして触れ合っている姿が見られました。

とは言え「子どもだったから気楽に過ごせたんだよ」と思うかもしれません。しかし、無邪気に夢を語って楽しめたのは、子ども時代だけだと思い込んでいるのではないでしょうか。誰かの価値観や誰かの普通を、自分の考えだと錯覚しているのかもしれません。大人になったら好きなようには生きられないなんておかしい。だって、子どもの時は「大人になれば働いてお金を自由に使えて、好きなことが何でもできる!」と思っていたのに、今ここを楽しむ天才だった子どもの面影が消えていく。

きっと「これではいけない」と思っているのに、普通の生活を送っているのはなぜだろうか?大人が子ども扱いする行為が、子どもをつまらない大人へと導く行為であると考えています。ノーベル経済学賞を受賞した有名なヘックマン教授の研究では、10歳くらいがひとつの閾値いきちになり、そこまでは教育のリターンが高いと言われています。
 となると、じつは10歳くらいで「つまらない大人になっている」のかもしれない。そんな早々に夢をくじかれたら、自己肯定感を高くい上がるのは難しく、無難ぶなんな生活を選ぶのも当然だ。

岡本太郎は著書「自分の中に毒を持て」でこのように言っています。

ぼくはよく成人式の講演を頼まれる。そのたびに言っているんだが、満20歳ではじめて社会と対面する。大人になるというのは、えらく遅すぎると思う。選挙の投票権を得るとか法律的に責任を負わせる区切りとして二十歳という年齢を決めているんだけど、精神的にそこまで待つ必要はまったくない。いくつで成人として認めればいいか。ぼくは10歳前後で成人式を行い、もうちゃんとした社会人として扱うべきだと思っている。なぜかといえば、七、八歳から十歳ぐらいの年頃になれば、自分と社会とのけじめがはっきりとついてくるからだ。こういう認識がめばえたときに、いままでの過去は死んで、社会のなかに人間として新しく生まれ変わるんだ。成人式は文明社会では祝うものだけど、本来はただ祝って楽しんですむものじゃない。厳粛に、きびしく、「社会」というものをつきつける、イニシエーションであるべきだ。

岡本太郎「自分の中に毒を持て」

■ 夢みる小学校
https://www.dreaming-school.com/

アップリンク吉祥寺にて3名の学校先生とオオタ監督のトーク
2回目はシネマ・チュプキ・タバタにて鑑賞


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