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メタバースの世界を探求する|自閉症学超会議に参加して

2022年4月2日(土)から4月9日(土)の期間に『自閉症学超会議』という、自閉症について語り合う学術イベントが開催されました。会場はメタバース(3D仮想世界)の「Virbela」で、バーチャル世界で自身がアバター(分身のキャラクター)になり、そこでオフィス、展示商談会、学校の授業、大規模会議、カンファレンス、音楽ライブなどのイベントを行うことが出来るサービスです。Facebook 社が社名を Meta に変更したことも話題となり、メタバースという言葉の認知度が上がり、奇しくも新型コロナウイルス感染症 緊急事態宣言の環境下で、Zoom に代表されるオンラインでのコミニケーションが一般化されました。

仮想空間 Virbela(バーベラ)内にてオンラインバーチャル開催

さて、そんな話題のメタバースを体験して感じたことを綴っていきたいと思います。当然ですがインターネット上の世界なので、世界中の人々が訪れます。現実世界と違う面白いところは、アバターの見た目を自由に設定できることです。私たちは国籍や肌や目の色をアイデンティティとして持っていますが、それを変えることはできません。メタバースの世界では現実世界の本人とアバターの外見が一致しているとは限りません。どうしても先入観を持って人と接しがちで、心理学では認知バイアスと言われ、認知に何らかのゆがみが生じてしまうそうです。しかし、メタバースの世界だと、その先入観という概念を疑わなければなりません。アバターの先にいる人間を意識するようになり、自然と外見ではなく内面に目を向ける状態に導かれるのです。これがメタバースの素晴らしい特徴だと感じました。東洋の島国である日本では、多様な人種が共に暮らしている姿をなかなか見かける機会が少ないと思いますし、僕も外国籍の方と交流することはありません。会話をしたり議論を交わす体験が少ないから、多様性の重要さは理解しているが腹落ちできていない、これが多くの日本人の現状ではないでしょうか?

多様性の観点から、今回参加したイベントのテーマである自閉症について考えを巡らせたいと思います。僕は『発達障害』と診断された子どもたちが放課後に通ってくる施設で働いています。「児童指導員」なんて言うちょっと偉そうな肩書を与えられているのですが、子どもを《指導する》だなんて思ってはいません。敬意を払い対等な目線で接するように心掛けています。そんな生活の中で感じるのが障害者に対する理解の低さです。でも、仕方がないとも思いますし、僕もこの仕事をしていなければ知り得なかったことでしょう。特に発達障害は分かりにくいのです。手足がないとか車椅子に乗っているとか目が見えなくて白杖をついて歩いているといった、誰が見ても障害を抱えていると分かる特徴がありません。だから当事者の子どもは困りごとを抱えているのに、なかなか周囲には理解されず、時には心無い言葉を石を投げるようにかけられてしまうのです。なぜこのような社会になってしまったのでしょうか?やはり「多様性とは?」を日々の生活の中で考える機会が少ないからだと僕は思っています。でも、それは《日本特有なこと》ではなさそうなのです。

たとえば、自閉症学超会議で行われた基調講演では、池上英子教授によるセカンドライフ(Second Life)で自己表現をする自閉症のアメリカ人の様子が紹介されました。仮想空間で自閉症の当事者グループの会合が行われているそうです。よく映画やドラマで輪になって悩みを打ち明けるシーンを観たことがあると思いますが、いわゆるグループセラピーにアバターを介して参加することができます。現実世界では他人とのコミュニケーションに課題を抱えている人でも、仮想空間の中ではとてもスムーズに交流していて、自然な会話の流れに驚いたそうです。でも、なぜ現実世界と仮想空間でコミュニケーションに違いが起こるのか、不思議ですよね。池上教授によると、

「自閉スペクトラム症の人の中には、話しぶりや表情、視線などから話し言葉で表現されていない細かなニュアンスを読み取ったり、表現したりする、といったコミュニケーションが苦手な人が少なくありません。ですが、仮想空間のアバターにはそうした微妙な表情がありませんし、全員視線も定まりません。文字によるチャットなので、口調から微妙な本音などを察するといった必要もありません。また、自閉症の人の中には、周囲の音やにおい、光などの周囲の刺激や慣れない環境が苦手な人も少なくありません。でも、仮想空間の中で交流する場合、自分自身は自宅のソファなどで過ごしやすい環境に身を置いて、パソコンを操ることができます。そのため余計な刺激を受けずに、安定してコミュニケーションできるのだと思います」

仮想空間ではコミュニケーションも円滑に

確かにその通りで、その人を取り巻く環境がとても重要であると、僕も自閉症の子どもと接していて感じています。最近では《合理的配慮》という言葉も広く使われるようになりました。そういった不快に感じる環境に左右されることがないから、自分の思い通りに感情や行動をコントロールすることができる。だから仮想空間では、いわゆる健常者と同じようにコミュニケーションを取ることができるようです。

日本の歴史や社会における自閉症スペクトラムを考察、発表した社会学者・池上氏による基調講演『仮想空間と人類文明』

これは素晴らしい世界の誕生と発見です。旧来は地上を移動して土地を開拓してきましたが、現在は仮想空間に自由な世界を作ることが可能となったからです。そこには無限の可能性が広がっています。現実世界に生きづらさを抱えている人の方が、いち早く未開拓地へ希望を求めて進んでいるのかもしれません。ジョン・F・ケネディ大統領が打ち出した政策、ニューフロンティアの開拓者を目指すかのように。この素晴らしい仮想空間の世界にはどのような概念が存在しているのか、僕の見解を述べていきたいと思います。最も重要なものは《見た目》で判断されることがないことです。どうしても私たちは国籍、肌の色、目の色、性別や容姿で、先入観という思い込みで相手を見てしまいがちです。だけど仮想空間ではアバター(分身のキャラクター)を介して存在しているため、見た目は自由にカスタマイズすることができるし、現実世界ではあり得ない姿にすることも可能です。その日の気分でファッションのように変えることだってあるでしょう。つまり「人は見た目では判断できない」と気づくことができないでしょうか?だってデジタルデータで作られた分身であるということは、偽りの姿だと理解し受け入れているわけですよね。仮想空間の世界では。それを現実世界と照らし合わせると、見た目は生まれつきのものであって、人格と必ずしも結びつくものではないと思うことができないでしょうか。

違う視点から見てみると仮想空間がビジネスとして盛り上がっています。Facebook 社が Meta に社名を変えたことや、自閉症学超会議の会場として使われていた Virbela など、そして国内ではバーチャル渋谷といったサービスが展開されています。新型コロナウイルス感染症の影響で Zoom に代表されるオンライン会議が広く普及しました。またイベントもオンライン開催が主流となり、オンラインで様々な催しに参加する敷居は低くなりました。リアルで集まれないことへの代替え案として、仮想空間が受け入れられてきた背景があるのですが、それは「無いよりもあった方がいいよね」といった考え方のようで、もったいないなと感じています。現実の世界では社会に適合できない人でも、仮想空間ではいわゆる普通の人でいられる環境が広がっている。現実世界と仮想空間を分けるのではなく、現実世界を拡張させるテクノロジーとして、その良さを多くの人に体験して欲しいと望んでいます。

似たような体験談として、僕が英語を勉強して腹落ちしたものがあります。それは「国籍など関係なく感じるものは一緒なんだ」と気づいたことです。たとえば講師との会話で家族の話になり、僕が「娘はいるけど離婚してます」と言うと「余計なこと聞いちゃってゴメンナサイ!」とリアクションされました。そんなやり取りを繰り返す中で「外国人も似た感性があるんだな」と感じる機会を通して、ひとりの同じ人間として向き合うことが大事であると思いました。「百聞は一見に如かず」のことわざがあるように、目から得られる情報は強烈です。相手と会話を重ねることでその人の理解を深めることができます。メタバースの世界には、人間の内面である人格だけが存在する世界なのかもしれませんね。


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