見出し画像

オフィスには何の価値があるのか

新型コロナウイルス問題によって、ビジネスの世界も大きな影響を受けている。その中で受けた相談内容について、自分なりに考えたことをブログの形で書いてみたいと思う。
基本的には、必ずしも明快な答えを出すためのものではなく、私なりにそこから色々と考えたことを共有できればと思っています。

オフィスは無くてもよいか

先日、ある方から受けた相談は、こういうものだった。

まだ立ち上げて間もないベンチャー企業(40名以下くらい)は、バーンレート(固定費)を下げるために、リモートワーク環境下で、今、次々とオフィスの解約をしている。確かに、そうすると短期的にはコストが下がるので、現状では必要なことかもしれないとは思う。けれど、この先この問題が解決した後にも、オフィスは不要だろうか、ということが話題に出ている。ある人は無くても良いといい、ある人は企業文化の醸成のためには必要だと言うが、どう思いますか?

なるほど、財務基盤が必ずしも頑強ではないベンチャーにとって、毎月の固定費である家賃は確かに大きな負担となって現状のしかかっているのだなと思った。それは本当に大変なことだと思う。

小規模なベンチャーにとって、リモートワークで仕事を回さなければならなくなり、でも、それでもまあまあ仕事が回る状態まで持ってきたときに、経済的にも苦しいし、そもそもオフィスって要らなく無いか?という疑問が生じているということなのだろう。

一方で、この質問は、組織とは何か、ということについて、かなり根本的な問いを突きつける非常に重要な質問だと考えられる。

東日本大震災を契機に、リモートワークに切り替えた会社を何社か知っているが、そうした会社も同じような気付きがあったようだし、実際、それによってかなりコストが削減されたということも事実だろう。ただ、それらの会社も、必ずしも完全にオフィスを無くしているわけではないし、顔を合わせる機会は何らかの形で持っていることも事実である。

こうしたことにおいて考えられるべきは、組織とは一体何なのか、ということではないだろうか。

現状ではなく、新型コロナ問題以前の通常の状態で、例えば、企業なり、大学なり、病院なり、何らかの組織の中に沢山カメラを設置しておいて、その映像を観てみたとしよう。それを一日中観察しても、組織なるものが現れることはない。当たり前だが、組織とは基本的には物的な存在ではない、と考えることも可能だろう。

もしそうであるならば、物的に組織が存在しないならば、別にオフィスなどなくて良いではないか、という考えもまた、ある意味で正しいように見える。

ならばなぜオフィスを持つのか

ただ、そうであるならば、なぜ、オフィスビルなり大学なり、病院なりは、装飾をするのだろうか。それなりに、一応造形を整えようとするのだろうか。

それは、物的な物自体が何かを語っているからである。
心理学者のワツラウィックらがかつて著した『人間コミュニケーションの語用論』という名著があるが、その冒頭にこういうエピソードが出てくる。ある鳥を研究する男性が、鳥に自分を親であるとプリンティングするために一生懸命鳥のように飛ぶ真似をしている。近くには小鳥たちがいる。しかし、壁の向こう側から、その彼を奇異な目で見る人々の視線を感じる。彼ら壁の向こうの人々には、鳥の姿は見えず、奇妙な踊りを必至にやっている男性の姿だけが見えているからだ。

つまり、私たちが何かをやっている時、何かを見る時、その対象は単に客観的にそのものだけで、それが意味があるわけではない。我々がなにかの対象を観察する時は、何らかの物事を解釈する枠組みに即して、その対象を観察しているのである。この解釈の枠組をナラティヴと呼んだりする。この解釈の枠組みがあって、初めて我々はそれが何であるのかを知る。これがなければ我々は意味を見出すことはできない。

もしも、自分の会社は、仕事をするためのものである、とするならば、技術的にも仕事の分解を徹底すれば、オフィスは一切不要である。無論、オフィスがあれば意味がいきなり豊かに与えられるわけではない。オフィスが無いこともあることも、意味を生み出す解釈の枠組みを提供するものだ、ということだ。

例えば、ある日本の大手製造業のオフィスに行ったときと、ある外資系のIT企業に行ったときには、あまりにオフィスのデザインが違って驚いたことがある。前者は、全くと行っていいほど飾り気がなく、その会社の役員の方いわく「やはり製造業は工場にこそお金をかけるべきだという考え方なんです」と語っていた。
後者の外資系企業では、かなり広々とした共用のドリンクスペースがあり、たくさんの飲み物が置かれていたり、ゲーム機が置かれていたりした。壁や天井にもたくさんの装飾が施され、一つ一つの装飾にその会社のメッセージが示されているようなところだった。

ここに2つのメッセージが語られていることが大事である。前者は「我々は工場に金をかける」というメッセージであり、そのことは「我々はものづくりの会社であり、よりよい製品をより安いコストで生み出すのが当たり前だ」という枠組みにおいて正当化されている。

後者は、「我々は自分たちのミッションをこう考えている」というメッセージが、それを包含する「我々がどういう存在であるのかをちゃんとわかっている人間の集まりであるべきである」という枠組みにおいて正当化されている。

つまり、紛れもなく、どちらの会社にも明確に解釈の枠組みが染み込んでいるのであり、それらを体現している物的な存在としてオフィスがあるということだ。
このように考えると、オフィスというものは、雄弁にその会社がどういう会社であるかを語っているのである。

では、オフィスのない会社というものを考えてみたときにはどうだろうか。オフィスがないこと、それ自体をアイデンティティとしているのであれば、それはそれで「我々はオフィスがなくても良い仕事ができる」ということを語っているだろう。
一方、コストという観点からオフィスを持っていないとするならば、「お金を節約するためにオフィスを持たない」ということになり、様々な行いがそういう観点から解釈されることに注意をしたい。

オフィスを持たないことが単にコストを削減するという意味を包含するもう一枚外側の大きな解釈の枠組みを構築できないのであれば、それは組織としての基盤が脆いことを意味しているのではなかろうか。

ここまで書いてきてわかったことは、オフィスを持つか持たないかという問題よりも、その組織がいかなる解釈の枠組み、物語を生きているのか、ということが、今問われているということだ。

我々はそれぞれの組織という物語の方舟に乗って、この長きにわたる大洪水から何を守ろうとしているのだろうか。
何を方舟に積み込んで守っているのだろうか、そして私たちの方舟は何を嵐と隔てるために存在しているのだろうか。

私たちは物語を生き、紡ぎ、運ぶ存在なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?