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言葉にならなくても、言葉を失っても、語っている

新型コロナウイルスの問題で、引きこもる日々が続いている。こんな中で、なんだかとてもモヤモヤとした日々を過ごしている。
しかし、それが一体何なのか、よくわからないでもいる。だから、今この文章を書きながら少しそれを整理したい。だから書いている。

世の中には様々な正論が飛び交っている。それは正しい。間違っていないし、大切だと思う。
行動の自粛を呼びかける声。それを影響力の大きい人やメディアがしっかりと整理して伝えてくれる。勉強になる。たしかにそうだと思う。自分も極力家にいて過ごしている。そのことに間違いはない。

一方で、自分は何を語ったら良いのか、良く分からなくなってしまってもいることにふと気がついた。自分が消えてしまったような、そんな感覚がしている。
正論に対して、何か噛みつきたいなんて気持ちはこれっぽっちもない。だって間違っていないと思うから。
けれど、それ以外のことを何を語ったら良いのかわからない。黙っていればいいではないかというのもまた違う。自分の中で明らかに何かとてもモヤモヤしたものがあるからだ。

モヤモヤは一体何なのか、自分なりにそれについて考えてみた。
自分のモヤモヤは自分にこう言ってくる。

「今は世の中が大変なときなのだ。我慢しろ」
「新型コロナの広まっている状況で、そのときに何か気の利いたことも言えないのか」
「お前は経営学の研究者のくせに、この大変なご時世で何も語る言葉がないのか」

毎日東京都の新規感染者数を見ている。増えれば心配だし、減れば嬉しい気もする。でも、新規の感染者数の推移など長期で見なければ意味がないのだというコメントを目にする。「お前の理解など浅はかなのだ」と言われている気がしてしまう。とたんに、自分の思いをぐっとこらえなければならないと思ってしまう。

色々な環境が変わった。そのことに戸惑ったし、今だって戸惑いながら毎日過ごしている。でも、ゴールも見えてきたらまた元に戻るのかなというのもまた大きな変化のようにも思えてくる。そんなことをいくら言っても意味がないのかなと思うし、そんなことを自分が語ったところで、「そんな何の役にも立たないことを言うな」というモヤモヤの声が聞こえてくる気もする。

ZOOMで色々な人と「ZOOM飲み」をやった。楽しい時間もあったけれど、正直あんまり面白くないなと思うこともあった。面白くないのは、自分の今の気持ちを棚卸しできない時間だ。そういうことを抜きにして、「これから先に起きる世の中の変化」だとか「リモート環境で何ができるか」みたいなことをいくら話しても、虚ろな気持ちになる。

間違ってはいない。勉強になる。けれど、何かそれで良かったんだろうかと思うが、そのことを言おうとすると、「自分なりのアイデアが思いつかないからそう思っているだけじゃないの?」という声が聞こえてくるような気がして、口をつぐんでしまう。

・・・・。

どうも自分は誤作動していたようだ。
突然環境が変わって、そのことに適応するだけでも精一杯なのに、それから「先のこと」や「(自分を抜きにした)世の中」について語らねばならないかのように思い込み、そして、そのことについて語れないことで自分が消えてしまったかのように感じていたのだ。

だけれど、こうして書いてみて思うが、何も語らない、語れない、ということ自体は、自分が何も考えていないわけでも、何も思っていないわけでもない。紛れもなく何かを感じていたし、これだけ色々な感情の動きや考えていることがあったのかと逆に気が付いた。

無理に前を向いた発言をする必要もなければ、焦ったり、憔悴したりしてもよい。苦しいと感じたり、色々と先々を考えて嫌な気持ちになったりしてもよい。不安に感じていたり、不安という言葉では表現しきれない何者かを感じていてもよい。言葉を失ってもよい。それは紛れもなく「ある」からだ。言葉がないという言葉を発しているからだ。

表に出てこない言葉、前に向けて発せられない言葉があっても、自分が立っている足元に、たくさんの思いや、感覚がある。自分はその上に立っていて、その結果として言葉にならなかったりすることだってあるのだ。

何も言葉にしなければ何も語っていないわけではない。
むしろ、何も言葉にならないほど色々なことに気がついたり、変化に悩んだりしていることを自分の心身は語っているのかもしれない。

前を向かなくても良い。何かを語らなくても良い。
だけれど、自分の心が大きく揺さぶられていることに対して、誤作動したまま失礼なことがないようにはしないといけない。

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