上達とは自分の可能性に気づくこと
体育が嫌いになる教育
ベテランの編集さんとラグビー小説について相談させていただいてたときに、「沢村さんてスポーツ好きなんでしたっけ?」
「苦手ですよ。ラグビー観戦だけは特別なんですよ。うへへ」
みたいなやりとりをしまして。
ついでに
「だいたい学校の体育の授業って、多くの子にとって、スポーツが嫌いになるようにできてるんですよ!」
と言ってしまったことがあります。
「なんの準備もないまま、突然一斉に走らされて、『君は早いね』『君は遅いね』って簡単にレッテル貼りされて、『ああ、自分は運動がダメなんだな』って思っちゃうじゃないですか。最初っから上手にできる子、みようみまねが上手な器用な子だけが、『うまい』ことにされて、少しトレーニング積んだり、ちゃんと理論やフォームを学んだらもっと伸びる子もいるはずなのに、その子たちのことは置き去りにされてしまう。一握りの上位の子は以外はスポーツ楽しいなんて思えないですよ」と語ってしまいました。
もちろん、一握りの才能を選抜し世界で戦えるトップアスリートに鍛えるのが、学校における体育教育の意義であるなら、なんにも間違っていないんですけど。
その一方で多くの子にスポーツへの苦手意識を植え付けたり、「エリートだけがやる意味がある」みたいな空気を作っているようにも思います。
運動が苦手な小学生に「上達すること」を教える
もう三十年以上昔のことになりますが、私が通っていた小学校(地域の公立校ですが)には「早朝サッカー」というものがありまして。誰でもいい(女子でもいい)から授業の始まる45分くらい前にサッカーボールを持って登校すると、ある先生がサッカー教えてくれる、という取り組みでした。
(この「早朝サッカー」から、地域に小学生サッカーチームができて、その後中学にサッカー部ができるまでのお話は、また今度詳しく書きます。こういう草の根活動をしたボランティアの力でJリーグは成功したんだと、私は思っています)
その先生はもちろん、めちゃくちゃサッカー好きなわけです。
ボール持っていったら、みんなに教えてくれるわけです。
四年生のときに、担任の先生が体調不良によりお休みで、その先生が(もともと体育が専科と思われる)代理で体育の授業をやってくれることになりました。
もちろんサッカーですよ。
一人ひとつずつボールを持って、両足のあいだの地面に置きます。
まず先生がお手本を見せます。右足の内側にボールをつけて、そっと左へ押して、今度は左足のサイドにつけます。今度は反対に左足から押して、右足へ。両足のあいだを一往復。
「これを今から50回やって」
よーいドンで始めますが、私はどんくさいし、もともとサッカーやってないので、四苦八苦です。足のあいだからボールが転がり出て、あわてて拾いにいきます。
こんなことを繰り返しながら、やっとこさ50回を終えます。
全員が終わったのを見届けた先生はみんなに言います。
「じゃあ、今のをもう50回やって」
(え、じゃあ、最初っから100回って言えばいいじゃん)
とかなんとか思いながらも、もう50回やります。今度はちょっとだけボールの扱いに慣れてきたので、さっきより失敗の回数が減っています。
全員が終わったところで先生が言います。
「みんな最初の50回よりも今のほうが早くできたけど、なにか違ってた?」
みんなに少し考える時間を与えて、先生は笑顔で言います。
「君たちはこれを50回やることで、最初のときより、ほんのちょっとだけ上達したんだよ」
(じ、上達……!!)じーん。
「君は上達した」なんて、いまだかつて体育の時間に言われたことのない言葉でした。
ほんのちょっとだけ、さっきの自分と変わっていくこと。
これが、上達するってことなんだ。
目から鱗がぼろっと落ちた気分。
比べるのは他人じゃないんだ。過去の自分でいいんだ。
ああそうか。こうやって反復練習をして、ほんのちょっとずつ上手になっていくんだ。これをいっぱい積み重ねていけば、私だって今よりずっと上手になるかもしれない。
ほかの子より上手になるかはわからないけど、今のどんくさい自分よりから変われるはずなんだ。私にだって、そういう可能性があったんだ。
ほかの子と比べなくていい、過去の自分と比べればいいんだ。ということがとにかく衝撃でした。
そして、毎日早起きしてこの先生にサッカー教わりたい子たちの気持ちがわかりました。
スポーツについて考えるとき、たった十分ほどのこの出来事を思い出します。
試合もやっていない。
基礎の基礎を習っただけなんだけど、楽しかった。
そして思うんです。
私はどんくさいけど、本当はスポーツ嫌いじゃない。
スポーツはたぶん、子供の自己肯定感を育ててくれる。
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