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開化党ー沖縄の鹿鳴館グループー

開化党は、琉球王国(琉球藩)の滅亡後、日本による琉球併合を支持したグループである。これに対するグループが頑固党で、王国の復興を唱えていた。

開化党のメンバーの中には、当初日本政府のためにスパイとして活動する者もいた。このスパイは探訪人たんぽうじんと呼ばれていた。探訪人の多くは下級士族の出身で、中には琉球の支配者階級に恨みを抱く者もいた。当然、頑固党は彼らを裏切り者として嫌っていた。

開化党は、沖縄がほかの他府県同様になること、すなわち習俗の面で同じようになることを支持していた。また、彼らは沖縄に銀行や新聞社を設立し、次第に沖縄の社会、経済、マスメディアを支配していった。開化党の代表的な人物が琉球新報の太田朝敷おおたちょうふである。

太田には、私立沖縄高等女学校の開校式で述べた、有名な「くしゃみ発言」がある。

沖縄今日の急務は何であるかと言えば、一から十まで他府県に似せる事であります。極端に言えば、くしゃみすることまで他府県のとおりにするという事であります(1900年7月1日)。

この発言は、沖縄の独自性に対する極端な否定である。それゆえ、明治時代の琉球新報の空手に関する記事が、しばしば否定的に書かれているのには、こうした背景が理由としてある。

しかし、太田のこの発言を、今日的な視点から一方的に批判できるかは難しい。当時、沖縄は本土に比べて経済的に遅れていたから、一刻も早く沖縄が本土に追いつかなければならないという思いが彼らにはあった。太田は第一回県費留学生として東京に留学しているから、汽車の走る東京の光景を目の当たりにして、当時の沖縄の後進性を痛感したに違いない。

第一回県費留学生。左端が太田朝敷。出典:那覇市歴史博物館

ある意味で、開化党は日本の鹿鳴館に代表されるような欧化政策を唱える人々に似ていなくもない。習俗まで同化することで先進国に近づけると考えていたわけである。

さて、1936年の有名な「空手大家の座談会」を主催したのは、太田朝敷が社長を務める琉球新報であった。時代が変わり、沖縄の独自性を守るべきだという声が高まると、太田朝敷も考えを変えていったのであろう。

ちなみに、太田朝敷と本部朝基は、「掛け試し」記事で紹介したとおり、若い頃から友人同士であった。太田は本部朝基に実戦をさせようとしたが、本部朝基は相手の実力が自分より低いからという理由で断ったのを太田は褒めていた。

出典:
「開花党」(アメブロ、2019年9月21日)。note移行に際して加筆。


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