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実戦の意味

某氏がまだ流派に在籍していた頃の話である。某氏から「本部御殿手は実戦で使えない」という言葉を何度か聞かされた。

某氏はもともと本部朝基の弟子の高野玄十郎氏(日本伝流空手道春風館)の弟子で当時たしか糸東会の所属だったが、本部流の再興を目指して宗家(本部朝正)と日本空手道本部会を結成し、本部流を名乗ることを許可された。

本部会の結成の前年(1976)、宗家は上原清吉から本部御殿手の継承を依頼されて師事するようになっていたので、某氏にも上原先生を紹介した。ほどなくして某氏は上原先生と本部御殿手に心酔して、本部御殿手の稽古に専念するようになった。

筆者が電話で「たまにはナイハンチもやってください」と言うと、「もう空手には興味がなくなりました」と話されていた。

筆者はその回答に納得しなかったが、どちらの流儀も本部家の武術だから仕方がないかとも考えた。興味をなくした人に無理強いしても仕方がない。そのうち考えがまた変わるかもしれないという期待もあった。しかし、上原先生の没後、某氏は次第に「本部御殿手は実戦では使えない」と言い出すようになって、違和感を覚えるようになった。

さらに「本部御殿手は本部朝基の本部拳法の実戦性と合わさってはじめて完璧な武術になるのだ」ということを言い出して、二つの流儀の「融合」ということを主張しはじめた。

筆者は某氏のいう「実戦」の意味がいまひとつ分からなかった。本部御殿手の実戦というのは、主として多人数で戦う「合戦」のような意味である。本部朝勇が戦手(イクサディー)と呼んでいたように、戦場で使う武術である。それに対して、本部拳法の実戦は掛け試しの実戦、すなわちあくまで個人レベルの実戦である。

前九年合戦絵巻

前者は多人数相手が前提だし、後者は1対1の攻防が前提である。もっとも古流空手では2人以上の敵を想定することもあるがーー。いずれにしろ、現代空手の組手競技では、完全に1対1の勝負が前提になる。

このように各武術や流儀が想定している「実戦」の意味には相違がある。歴史の古い武道流派ほど、多人数戦や対武器を想定した「実戦」を考え、近代に近づくと1対1の攻防や素手での攻防を想定した「実戦」を考える。

だから、実戦で使えるか使えないかは、その流儀がどの実戦を想定しているかを定義しないと、無理のある比較論になってしまう。

ちなみに、上原先生は9割近くが死傷する地獄のようなフィリピン戦を生き延びることができたので、「朝勇先生が教えてくださった本部御殿手は実戦で役に立った」と確信するようになった。

いずれにしろ、上原先生は「本部御殿手は唐手(とうで)ではない。きっと手(ティー)を起源とするものに違いない」と言っていたし、某氏が空手に興味を失ったのもその影響があったからではないか。

上原先生は学者や研究者ではなかったから、その主張は本部朝勇との稽古を通じて得た経験や直感に基づくもので、唐手とは違うというのは大正時代の唐手家が型しか稽古していない姿に違和感を覚えたからである。

本部御殿手の起源や形成過程は複雑な問題であるし、大正時代の唐手が琉球王国時代のそれと同じかという問題もあるので、学問的には単純な二元論で区別できるわけではないが、いずれにしろ、上原先生は御殿手と唐手の区別にはこだわっていた。

だから某氏が実戦の明確な定義をしないで「融合」ということを言い出しても理解できなかった。少なくともそれは本部家の考えではない。もっとも某氏は本部家の意見などどうでもいい、自分は真理に到達したのだという雰囲気だったから、筆者の疑問など問題外という感じであった。

出典:
「実戦の意味」(アメブロ、2016年4月30日)。加筆修正してnoteに移行。

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