見出し画像

田舎手

沖縄には、田舎手イナカディーという言葉がある。首里那覇以外の地方の手という意味である。たとえば、首里の空手家たち(糸洲系統)は喜屋武朝徳の手を田舎手と揶揄していた。

喜屋武先生はもとは首里儀保町(当時は村)の生まれである。儀保は首里城の北方にあって、本部御殿があった赤平町の西隣に位置する。儀保は当時は国頭御殿、具志頭御殿、佐久真殿内、浦添殿内、与那原殿内といった大名屋敷が立ち並ぶ貴紳町であった。

沖縄の士族屋敷。出典:那覇市歴史博物館

喜屋武先生は10代の頃、尚家しょうけ(旧琉球王家)の家扶かふを務める父・朝扶に従って東京へ移住し9年間を過ごした。当時、沖縄出身者で東京に暮らせるのは尚家の屋敷に勤める士族か、一握りの県費留学生のエリートのみであった。

いわば、喜屋武先生は生まれも育ちも沖縄屈指の「都会人」だったわけで、彼を田舎者呼ばわりできる人間は沖縄にはいなかったのである。

正確な時期は分からないが、おそらく30代になって、喜屋武先生は読谷村へ移住する。父・朝扶はもと本永朝用の長男で喜屋武家を継ぐため、その養子となった。そして、喜屋武先生は父の実家を継ぐべく、こんどは本永家の養子になった。それゆえ、喜屋武先生の本名は本永朝徳である。

喜屋武先生も東京から帰郷後はほかの「廃藩のサムレー」同様、生活のため田舎へ移住せざるを得なかった。だからといって、喜屋武先生の空手は父・朝扶や松村宗棍に学んだもので、田舎手ではない。しかし、のちの首里の空手家たちは勘違いして田舎手と揶揄したわけである。

なるほど、たしかに喜屋武先生の型は典型的な糸洲系統の型とはその趣を異にしている。しかし、それは「糸洲安恒の改変」で述べたように、糸洲先生が古流型を改変してしまったからであり、喜屋武先生の型はむしろ古流の趣を残しているとも言える。

したがって、糸洲以降の首里手の型と違うからと言って、喜屋武先生の手を田舎手と決めつけることはできないのである。結局、田舎手というのは喜屋武先生の出自や生い立ちを知らない人たちによる的外れの批判に過ぎなかった。

ちなみに、喜屋武家は喜屋武殿内ちゃんどぅんちと呼ばれていた。殿内とぅんちは上級士族の家柄を指すが、その中にもランクがある。間切(今日の市町村に相当)を領する総地頭家と間切のうちの一村を領する脇地頭家の2つである。喜屋武家は総地頭家であった。

上原清吉によると、本部朝勇は喜屋武先生のことを「チャンミーグヮーと呼ぶのは失礼だから、喜屋武殿内と呼びなさい」と言っていたそうである。あだ名で呼ばず敬称で呼びなさいと言っていた。このようにお互いを敬称で呼び合うのが首里の上流階級の習慣であった。

出典:
「田舎手」(アメブロ、2017年5月21日)。note移行に際して加筆。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?