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前手突き

古流唐手から失われた技法の一つに「前手突き」がある。

前手突きというのは、夫婦手で構えたときに、構えた前手のほうで突く突き方である。

前手突きは今日「刻み突き」とも呼ばれて、競技空手の組手試合でも使われている。しかし、本土の空手家の中には、「刻み突きは本土で開発されたものである」と主張する人もいる。その理由は、「本来空手は無構えである。いわば、ボクシングのようなファイティングポーズを取らないから、構えていない前手で突きようがない」という理屈である。

もちろん、これは事実ではない。下の写真にあるように、前手突きはすでに大正時代の本部朝基『沖縄拳法唐手術組手編』(大正15年)で示されている。

これは左側の本部朝基の相手役(山田辰雄)が左の前手でそのまま上段突きをしたのを、本部朝基が右手(腕)で上げ受けし、左手は相手の控えの手を押さえている写真である。十二本組手の一本目である。

上の意見は要するに夫婦手が本土にほとんど伝わらなかったので、「本来の空手には、前手突き(刻み突き)などあるはずがない」という先入見から生じたものであろう。

しかし、この先入見は本土だけでなく、戦後沖縄でもそうであった。本部御殿手でも本部拳法同様、前手突きを使う――というか、むしろ前手突きが基本の突き方になっているのだが、昭和30年代の沖縄では前手突きは大変珍しかったという。当時の弟子の翁長武十四氏は次のように述懐している。

(当時の上原先生の教えは)突きは左右どちらでもよかったが、必ず前の手で突かせた。ボクシングでいうジャブのような突きである。その頃、前手で突かせる流派は、沖縄には他になかったので非常に珍しかったと思う。普通は前手は受け手で、突きは引き手のほうから突かせるスタイルが常識の時代である。蹴りも前足で蹴るように教えられた。足の親指付け根で正面を蹴った。

上にあるように、本部御殿手では蹴りも前足で蹴るのが基本である。普通、空手の前蹴りは、奥足のほうから蹴るのが一般的である。

なぜ、本土だけでなく沖縄でも、前手突きは一般に失伝したのであろうか。これもやはり掛け手や夫婦手が明治以降、沖縄の学校唐手で採用されなかったのが大きな要因であるように思う。

そもそも、夫婦手に構えなければ、(胸の前に構える)前手は存在しないわけで、その場合、本土の一部の空手家が主張するように、確かに存在しないものから突きが出せるはずがない。

結局、掛け手や夫婦手が沖縄の学校唐手で採用されなかったために、前手で突くという発想も失われ、その後本土で組手競技が始まると、両手を夫婦手のように構えるようになってきたので、再び「刻み突き」として復活したのではないであろうか。

出典:
「前手突き」(アメブロ、2016年4月23日)。


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