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型少数主義と松村宗棍の真髄

以前、三木二三郎・高田瑞穂共著『拳法概説』(1930)に記載の屋部憲通の「型の数」の話を紹介したことがある。もう一度、同じ箇所を引用する。

屋部憲通先生は五十四歩、公相君――型の名称――の二つを20有余年練習し、それ以外は知らないように承はった。従って屋部先生のこの態度は真にその技の玄妙の域に達せんと努むる武道家の採るべき道であると吾人は信ずる。

同書16頁。

上記によると、屋部先生は20年以上、二つの型しか練習していなかった。三木と高田はこの話を聞いて驚いた。そして、これこそ、空手の達人の有るべき姿であると感動したという。

屋部先生と親友だった本部朝基も「型はナイハンチだけでいい」という考えだったことはよく知られている。もちろん、実際には、白熊やセイサンやパッサイも教えていたが、それでもそんなにたくさんの型は教えていない。

古流首里手にはーーあるいは古流空手にはーー自分にとって必要な型だけを稽古し不要な型は稽古しないという「型の断捨離」とでも言うべき考えがあった。こうした考えを明確に打ち出していた空手家、文献からその様子を窺える空手家は誰であろうか。――それは松村宗棍である。

以前、「松村宗棍の型」という記事で、直弟子の証言から松村先生が教えていた型は3つしかないと書いた。そして、一人の弟子に対して、1つか2つしか型を教えていなかったということも記した。つまり、松村先生は決して短期間にたくさんの型を教える人ではなかった。

松村先生が弟子の桑江良正に宛てた手紙にも「手数計り踊の様にて相成り」という文言がある。要するに、型の数だけたくさん練習して、その型の分解を熟考しないなら踊り同然であり無意味である、というわけである。

松村先生は、もともと実地の経験で武術を修業してきた人で、壮年になって「屋比久の主」に師事するまで古流の唐手に通じていなかったという記事を紹介したことがあるが、ここでいう古流の唐手とは、型のことを指しているのではなかろうか。つまり若い頃から組手は熱心にしてきたが、型を本格的に練習しはじめたのは壮年になってからであると。

少数の、自分に合った型を稽古して、そこに内在する原理を追究して組手に活かすこと。――松村宗棍の真髄とはこういうものであり、屋部先生や本部朝基はこの理念に忠実な空手家であったのであろう。

出典:
「型の断捨離と松村宗棍の真髄」(アメブロ、2018年10月18日)。

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