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掛け試し

昭和11(1936)年10月25日、那覇で史上有名な「空手大家の座談会」が開かれた。沖縄県が制定した「空手の日」はこの座談会に因んだものである。本部朝基も本土から一時帰郷していてこの座談会に出席したが、そのとき以下のようなやりとりが行われた。

太田氏 本部君の21、2歳の頃に私が本部君を引張り出して実戦をやらせようとしたが仲々やらなかった、本部さんそうでしたね
本部氏 (笑って、肯く)
太田氏 昔の人は先方が相当の相手と見なければ喧嘩を決してやらなかった、それは自分の腕を試すためにやったもので、嵐暴(らんぼう)とは全く違う 

『琉球新報』昭和11年11月8日。原文は旧字旧仮名遣い。

太田朝敷(1865 - 1938)は、廃藩後の沖縄の代表的な知識人の一人で、当時琉球新報の社長を務めていた。上記によると、本部朝基とも若年の頃から知り合いだったらしい。

太田のいう実戦というのは、掛け試し(かけだめし、方言でカキダミシ)のことである。掛け試しというと、従来しばしばノールールで行う「ストリートファイト」のように言われてきたが、そういうわけではない。基本的には掛け手スタイルで行う一種の練習試合で、お互いの同意の上で行われた。

では、どうしてそのような誤解が生じたのであろうか。大きな原因の一つに「辻」という言葉があると思う。

辻(つじ、方言でチージ)は、いまの那覇市辻地区にあった村で遊郭街であった。江戸の吉原のような場所である。もっとも当時の遊郭街はーー吉原がそうであったようにーー単なる風俗街ではなく、身分の高い士族や那覇の豪商が集う社交場でもあった。掛け試しはこの辻村でよく行われた。

辻。出典:那覇市歴史博物館

ところで、日本語の辻(つじ)には、十字路(四つ辻)や繁華街といった意味もある。また、江戸時代、武士が辻で通行人を斬りつける行為があったが、これは「辻斬り」と呼ばれた。

この村名としての辻と、日本語の十字路や繁華街という意味の辻。この2つが混同され、そこから掛け試しと辻斬りは同様の行為であるとの誤解が生じたのであろう。

掛け試しは自分の実力の評価が目的であるから、互いの同意の上で、実力が伯仲した者同士が行った。つまり、日本の辻斬りのように、夜間にいきなり通行人に暴力を振るうような行為ではなかった。それゆえ、太田は、当時の実戦は単なる嵐暴(乱暴)とは全く違うと言ったわけである。

当時の空手(唐手)には、約束組手は存在しなかった。型の稽古の後は、掛け手(自由組手)を行い、習熟すると、掛け試し(練習試合)を行ったのである。しかし、明治30年代以降、掛け手や掛け試しの風習が廃れて、もっぱら型稽古ばかり行うようになった。そうした中で、掛け試しの意味も誤解されて伝わったのである。

出典:
「掛け試し」(アメブロ、2016年5月15日)。

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