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ナイハンチの原型?

先日紹介した本部朝茂もとぶちょうも(朝勇次男)は、トマイクン以外の型もいくつか残している。朝茂氏は、戦前大阪から和歌山へ、さらに南洋へ移住して終戦間際にふたたび大阪に戻ってきて、そこで空襲に遭い亡くなった。南洋時代に、先日紹介した内間安勇氏の伯父、内間安壱氏が朝茂氏に師事して、それで朝茂氏の型が伝わっているのである。

本部朝茂

それらの型のなかにはナイハンチもあるが、これが大変ユニークで空手史的には非常に興味深いのである。以下にその一部を動画で紹介する。

動画にあるように、「カニの横歩き」のときに、波返しを入れている。また横への諸手突きのとき、ふつうは片方の腕はカギ突きになっているのであるが、このナイハンチでは肘を伸ばしきった諸手突きになっている。

波返しは通常は左右への横受けのときに同時にするのであるが、このように運足の途中で入れるナイハンチは珍しい。この部分を見て、筆者はこれがナイハンチの原型ではないだろうかと思った。入れる箇所は違うが、波返しが多いの例として、ほかに一心流のナイハンチがある。

この本部朝茂のナイハンチは、昭和36年(1961)の古武道演武大会(沖縄古武道協会主催)でも演武されていて、そのとき新聞記事で紹介されたのであるが、やはりナイハンチの原型ではないかと書かれている。

内間安勇(23歳)
ナイハンチ昭和13年南大東の北区に生まれる。離島からの出演者は内間さんだけで、さる四日来覇、比嘉会長の宅で出演を待っている。最年少の出演者でナイハンチを演武する。内間さんのナイハンチは本島の型と違っているが、ナイハンチの原型がそのままのこっているのではないかと、見られている。おじの安壱さんから指導をうけているというが、安壱さんは戦前南洋で本部朝祐(朝勇の誤植)氏の息子トラジュー(通称)と寝食をともにしながら空手の修養にいそしんだ。

『沖縄タイムス』1961年11月26日

このとき、沖縄古武道協会会長を務めた比嘉清徳先生は、これは松村宗棍のナイハンチではないかと意見を述べているが、本部朝基は松村先生はカギ突き――諸手突きではなく単独のカギ突き――のときに肘を伸ばしていた、と語っているが、この朝茂のナイハンチは肘は伸びていない。それゆえ、松村のナイハンチそのままではないが、同時代、もしくはそれ以前の古流ナイハンチの一種ではないだろうか。

上の新聞記事では、このナイハンチは本部朝勇から伝わったものと書いているが、朝基のナイハンチとは違っているのでありうる話である。上原先生は、「朝勇先生は30くらい型を知っていた」、「武術の知識で、当時朝勇先生に比肩できる人は他にいなかった」と語っていた。このナイハンチを見ても、朝勇先生は単に型の数だけでなく、より原型に近い貴重な古流型を多数知っていたように思う。それらの型のいくつかは、沖縄唐手研究倶楽部を通じて、他流派へも広まっている(「本部のソーチン」参照)。

先日のトマイクンの型を、内間安勇氏は本部御殿の家伝の型だったのではないかと語っていたが、このナイハンチもそうだったのだろうか。松村系統と称されるナイハンチはいくつか伝わっているが、いずれとも異なっている。そうだとすれば、本部御殿はどうしてこのような古流型を保存していたのだろうか。

上原先生は、「本部御殿は王家武術指南役のような家柄だったのではないか」、「武術に関して特別な使命を帯びていたと思われる」と推測していた。本部御殿の当主が国王や世子の近習や守役(ヤカー)を務めていたかは家譜が残っていないのでわからないが、武術に関してひときわ熱心だったのは確かなようである。

出典:
「ナイハンチの原型?」(アメブロ、2018年3月17日)。


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