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本部朝勇のソーチン

先日、本部朝勇が宮城長順(剛柔流開祖)の弟子の喜納正興に教えたというソーチンの型の動画を海外の空手家に教えてもらって見る機会があった。

剛柔流の伝承によると、何でも宮城先生が喜納氏に「本部の御前(ウメー)先生から首里手も習うように」と勧めて、習得させたという。動画の型の信憑性について、部外者である筆者には確実な判断は下せないが、ただ本部朝勇がソーチンを習得していた事実は、琉球新報の大正7年の記事からも確認することができる。

教授の型について説明があった。次に本部朝勇氏のショーチン、喜友名翁のパッサイ、知念翁の棒使い、屋部の五十四歩について型を示し……

『琉球新報』大正7(1918)年3月21日記事

記事中の「ショーチン」とは、ソーチンのことであろう。クーサンクーをクーシャンクーと発音する例があるように、当時の沖縄ではsの子音をshで発音することがあったからである。

もう一つ、このソーチンを見て、おそらく本部朝勇伝だろうと思われるのは、この型の構成や全体の雰囲気が上原清吉先生が創作した「合戦手(かっせてんて、カッシンディー)」の三に似ていたことである。合戦手は三~五まであり、昭和50(1975)年前後に上原先生が創作した型である。

上原先生は唐手の型もいくつか知っていて昭和30年代には教えたりもしていたのであるが、弟子が唐手型に流れるのを嫌って、教えなくなってしまった。その代わりに創作した型が合戦手である。

合戦手は本部御殿手の術理を体現するように作られたので、既存の唐手型には似ていないだろうと思っていたが、今回見たソーチンが似ていたので正直驚いた。確かに動画のソーチンにある、下段への突きや四股立ち風の動作は合戦手にはないが、上原先生が本部御殿手の術理に反するとして省いたなら、ソーチンが合戦手の元になった型の一つだったのかしらと思った。また、一部はジッチンにも似ていた。

余談だが、松濤館の壮鎮(ソウチン)は本部のソーチンが第三者を経て伝わったもの、という説があるのをドイツの空手研究者・アンドレアス・クヴァスト先生に教えてもらった。両者を見比べたところ、同一ではないが確かに似ている箇所はあった。ただ松濤館の壮鎮がどのように伝わったのか、筆者は情報を持ち合わせていないので、両者の関係は不明である。

松濤館の壮鎮は船越先生が本土に来た当初に習得していた15の型(いわゆる松濤館十五の形)には含まれていない。誰がどの時点でこの型を松濤館のレパートリーに加えたのであろうか。空手史にはまだ多くの謎がある。

追記:筆者が見た本部朝勇のソーチンという型はどうやら本部朝勇のウンスーだった可能性がある。これについては、また後日考察する。

出典:
「本部のソーチン」(アメブロ、2016年2月7日)。


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