本部朝基は三男だから学校に通わせてもらえなかった?
名声と誹謗中傷はしばしば表裏一体の関係にある。たとえば、本部朝基は若年の頃から「非常に武才がある」と松茂良興作に激賞され、長じてからも「三尺の童子にもその名を謡われている琉球武術の大家」(1)、「実践の強勇に至っては、郷里に誰も知らない人はいない大剛者」(2)、「(組手では)沖縄第一」(3)、「唐手実戦家ナンバーワン」(4)等と讃えられた。
一尺は長さの単位ではなく2歳半を指す。したがって、「三尺の童子」とは7、8歳くらいである。つまり、沖縄では物心ついた子供から大人まで本部朝基の名を知らぬものはないほどその武才は知られていたという意味である。
しかし、そうした評価は他方で他の空手家から激しい嫉妬をもたらした。もちろん、昔の武術家の場合、立ち合えば自ずと結論は出る。しかし、当時の沖縄の空手家の多くはすでに型の稽古に専念して、組手はほとんど稽古していなかった。
結果、本部朝基は「掛け試しのせいで、正式に空手を習えなかった」とか「松茂良興作は本部は喧嘩に使うからと組手は教えなかった」などと批判された。要するに「実力はあるが正統な空手ではない」という印象操作である。しかし、これらは事実と異なるとこれまでの考察で指摘した。
ほかにも、「本部朝基は御殿(王族)の家に生まれたが、長男と違って三男は当時の風潮からまともな教育が受けられず、学校にも通わせてもらえなかった」という批判がある。果たして、これは事実であろうか。
たとえば、義村御殿の次男に生まれた義村朝義について述べた「義村朝義小伝」(1981)には、「幼時は赤平の村学校に学び、明治10年には、宜野湾王子尚寅と共に城中二階殿に於て学んだと記録にある」という一文がある(5)。
村学校というのは、琉球王国時代の初等教育機関であるが、年齢的には現代の小学校から中学校に相当する。19世紀初頭に、首里、那覇、泊の各村に村学校がつくられた。太田朝敷(1865 - 1938)の『沖縄県政五十年』(1932)によると、士族の子弟は、6、7歳になると村学校に入学し、主に漢学や習字等の伝統的な教育を受けた。首里にはさらに平等学校(ひらがっこう)があり、13、14歳になって村学校を卒業すると、そちらに進学した。
宗家(本部朝正)によると、本部朝基も赤平の村学校に通って正式に教育を受けた。浅野誠『沖縄県の教育史』(1991)に以下の文章がある。
したがって、御殿の次男、三男だからといって学校に通わせてもらえなかったという事実はないのである。むしろ、次男以下は将来独立して王府に役人として勤務しなければならないので、両親も熱心に教育を受けさせた。
宜野湾王子尚寅は、尚泰王の次男、尚寅、宜野湾王子朝広(1866 - 1905)のことである。王子はさすがに安全等の理由で村学校には通えないので、首里城内にある二階殿で教育を受け、その際、「学友」として御殿の子弟から同年齢の者を選び、王子の相手をさせていたのである。それゆえ、本部朝勇(1865年生)や本部朝基(1870年生)も首里城で学んだかもしれない。
なお、村学校は明治12年(1879)の廃藩時に一旦廃止されるが、同年12月には復活した(7)。明治14年(1881)時点での、沖縄の教育状況について、太田朝敷は以下のように語っている。
明治14年は、本部朝基が満で11歳である。当時生徒が2144人いたというから、本部朝基もまだ在学していたであろう。復活した村学校は、旧慣、すなわち琉球王国時代の教育を踏襲したので、日本語(共通語)の教育は行われなかった。したがって、この世代の子供達は日本語が話せなかったのである。
本部朝基は50歳を過ぎてから内地に出たため日本語に苦労し、そのため無学だと誤解されたとしても、当時の状況を考えるとやむを得ないのである。船越義珍は小学校の教員であったから日本語は話せたが、それは学校においては方言が禁止され、もし生徒が方言を使えば罰として「方言札」を首からぶら下げられるなどの「同化教育」が行われていたためである。
明治政府が設立した公立学校は「大和屋」と呼ばれ、沖縄の士族たちは激しく反発し、子どもたちを公立学校に通わせなかった。こうした風潮が沖縄で下火になったのは日清戦争で清が日本に敗北して以降である。
したがって、本部朝基の世代で日本語が話せた人は1%にも満たなかったであろう。日本語が話せた者は、学校教員、陸軍に入った者、東京へ留学したり尚家(旧王家の侯爵家)に仕えた者の子弟など、ごくわずかであった。
もちろん、沖縄を含む日本全体が当時は西洋近代化を果たさなければならないという目標があったので、こうした同化教育には一定の合理性はあった。しかし、現代の視点から見れば、もっと別のやり方があったのではないかという指摘も出てくる。
いずれにしろ、当時の子供達もその両親も将来の沖縄のことを憂いて、それぞれの選択をしたのであり、どのやり方がよかったかは一概には評価を下せない。
注1 『沖縄朝日新聞』、1925年6月27日。
注2 『キング』講談社、1925年9月号。
注3 『作興』講道館文化会、1927年3月号。
注4 『琉球新報』、1936年11月9日。
注5 「義村朝義図録」沖縄県立博物館、1981年、11頁。
注6 浅野誠『『沖縄県の教育史』思文閣出版、1991年、120、121頁。
注7 太田朝敷『沖縄県政五十年』国民教育社、1932年、53頁。
注8 同上、91頁。原文は旧字旧仮名遣い。
出典:
「村学校」(アメブロ2021年9月4日)。
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