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唐手佐久川は本当に中国へ行ったのか

2017年春、沖縄空手会館の落成式典に宗家(本部朝正)とともに招待されて出席した。そのとき、沖縄のある方からこんな話を聞いた。某流派の某氏は清(中国)へ渡って中国武術を学んできたとされるが、某史料にはその記述がなかった。

史料名を書くと沖縄史に詳しい人ならば流派を特定できるので伏せるが、その方は学芸員の資格をもつ方なので筆者はその史料は未見だが本当のことなのだろうと思った。とすると、その流派の歴史も型も捏造の可能性があるということになる。

基本的に琉球士族の渡清は進貢使節の一員として行くか、もしくは留学(官費、私費)か、それか漂着かのいずれかであった。漂着の場合は速やかに福州の琉球館に送られて帰国する手はずになっていたから、長期間現地で中国武術を学ぶのは不可能である。

進貢使節や留学の場合も、様々な条件があり士族ならば誰でも行けるというわけではなかった。進貢使節の一部や官生かんしょう(官費留学生)は福州からさらに北京へ行くことができたが、当然ながら条件はさらに厳しかった。

さて、北京へ渡って中国武術を学んできたとされる人物に唐手佐久川とうでさくがわこと佐久川寛賀さくがわかんががいる。しかし、この説に対して、2017年に沖縄タイムスで沖縄学の専門家、田名真之氏が批判的に取り上げていたので、以下に紹介したいと思う。

②の中国留学は誤りである。官生など国費留学は何年に誰が派遣されたかなど明確で、寛賀は該当しない。進貢船の上級役員の耳目官だと12人、才府は4人など従者を伴うので、その中に加えてもらって、学問や技術を学びに行くケースは多々ある。

「沖縄空手ヒストリー11」『沖縄タイムス』、2017年9月3日記事。

上の引用文によると、佐久川寛賀の名前は官生(官費留学生)の一覧にはないので留学はありえない。ただし進貢使節団の従者として渡清した可能性はある。実は19世紀の官生の氏名はすべて唐名(中国風名)で知られていて、佐久川は易氏なのでその唐名は「易…」となるが、易氏の人物は一人もいないのである。

また、進貢使節の従者についても、さらにこんなことが書かれていた。

それと、従者であっても進貢使節団の一員であり、その行動はおのずと制約がある。滞在は短期だと約半年、長くても1年半が限界である。空手の修行で何年も福州に留まったうんぬんは、ありえない。


かりに佐久川寛賀は従者として中国に渡った場合、北京へ行くことはできないまでも、福州に滞在することはできる。しかし、その場合でも何年も武術を修業したということはありえず、せいぜい半年から1年半程度だったということになる。

それゆえ、従来語られてきた佐久川寛賀の経歴――北京に留学して、国子監で学ぶかたわら、北京城内にある善撲営(武術訓練所)に出入りを許された最初の琉球人であり、当地で北派拳法を学んで、帰国後は琉球王府の国学の教師になったうんぬん――はすべていつわりだったことになる。

ちなみに、国学(琉球の最高学府)の教師の席は久米士族のみで、首里士族(佐久川は首里出身)はなれなかったと、上記の記事では述べられていた。

このように沖縄学の立場から分析すると、これまで語られてきた唐手佐久川の経歴の大半は誤りだったことになる。

唐手佐久川の逸話の元ネタは後裔の談によるもので、長嶺将真(松林流)がそれを著書で紹介したので1970年代以降広まり、さらにさまざまな尾ひれがついて定説化した。

唐手佐久川について指摘された批判は、ほかの琉球王国時代に渡清して中国武術を学んできたとされる唐手家にも当てはまることになる。口碑によると、彼らは中国で何年も――ときには何十年も――修業して、免許皆伝を得たとか奥義をきわめたと言われているが、こうした逸話はすべて、上述のことを弁えると、誇張か事実誤認だったことになる。

そもそも最長でも1年半の滞在で免許皆伝とか奥義に到達といったことがありえるだろうか。おそらく実際は基本の鍛錬法を学ぶのがせいぜいで、型は学べても1つか2つが関の山だったのではないであろうか。

もちろん口碑が何世代にも渡って受け継がれていくうちに、話が自然と誇張されたということはあり得る。それゆえ、たとえある流派の歴史が事実としてはあり得なかったとしても、それは悪意で捏造されたものではなく、伝言ゲームのように自然と口碑が変わっていったのかもしれない。

唐手佐久川の場合、「唐手」と冠されていたわけであるから、中国への渡航そのものが捏造だったという可能性はないと筆者は考える。しかし、北京で学んだのか福州で学んだのか、実際の滞在期間は何年だったのかは厳密に再検討されなければならない。

出典:
「唐手佐久川」(アメブロ、2017年9月28日)。note移行に際して加筆。

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