本部流
本部家に家伝として伝わる武術に関する記事です。
空手の歴史についての考察記事です。
本部朝基が開いた本部拳法に関する記事です。
日本武術についての記事です。
沖縄の歴史についての記事です。
昨年、本部御殿手の取手の特徴について(1)と(2)の2つの記事を書いた。 ・本部御殿手の取手(1)ー座技と立技ー ・本部御殿手の取手(2)ー対当身と対掴み手ー …
先日、新たに見つかった宮城長順の写真を紹介したが、この写真は偽物ではないかと一部で疑問の声が上がっていることを知った。 写真の宮城先生はほかの写真よりもふっくら…
ちょうど1週間前(2019年2月)、日本武道館で開催された日本古武道演武大会に出場して、そのとき控え室で様々な流派の演武をモニターで拝見していた。その中に剛柔流の演武…
夫婦手(めおとで)は、唐手の構えである。通常は前手に後手を添える形で構える。しかし、両手(両腕)を添える構え方はほかにもあり、構え方は一つというわけではない。夫…
名声と誹謗中傷はしばしば表裏一体の関係にある。たとえば、本部朝基は若年の頃から「非常に武才がある」と松茂良興作に激賞され、長じてからも「三尺の童子にもその名を謡…
大正7年(1918)、本部朝勇は屋部憲通、喜友名親雲上、知念三良(山根のウスメー)等とともに、沖縄県師範学校で唐手の型ショーチンを演武した。ショーチンはソーチンのこ…
Facebookをご覧のかたはすでにご存知かもしれないが、少し前に最近発見された宮城長順のハワイでの写真が海外空手家のグループの間で紹介されていた。 詳しい撮影場所や時…
琉球王国時代の空手家の肖像画というものは少ない。少ないというかほとんどない。唐手佐久川や真壁チャーングヮーはどういう顔をしていたのであろうか。 そもそも琉球王国…
競技化された現代空手では、基本的に想定する敵は一人である。組手試合では対戦相手は一人である。近年行われている団体形の演武では、複数相手と戦う「分解」が披露される…
空手の突きと柔術の突きの違いについては、以前アメブロのほうで述べたことあるが、最近SNSでその話題が持ち上がっていたので改めて紹介したいと思う。 例として中段正拳…
先日、名嘉真朝増先生の孫弟子の方から、少林流松村正統の祖堅方範先生が名嘉真先生からピンアン初段と二段を習ったという話を記事に書いたが、その方から祖堅先生の「白鶴…
Facebookで山根流棒術の伝系について質問があって簡単な回答をさせていただいたが、改めてブログでもこのことについて書いておこうと思う。 山根流は沖縄では明確に「家元…
以前、三木二三郎・高田瑞穂共著『拳法概説』(1930)に記載の屋部憲通の「型の数」の話を紹介したことがある。もう一度、同じ箇所を引用する。 上記によると、屋部先生は…
空手の歴史を研究していると、こんな疑問を抱くことがある。それはある流派の型がいつのまにか増えていって、その過程が明らかでないというものである。 たとえば、沖縄の…
本部御殿手では、以前より空手(剛拳)と琉球舞踊の関係を強調してきた。それは、琉球王国では空手も琉球舞踊も職業専門家によって担われていたわけではなく、士族によって…
学生の頃、大学の図書館で『ニューヨーク・タイムズ』の音楽評論を長く担当していた名物評論家、ハロルド・ショーンバーグの『偉大なピアニストたち』という本を借りて読ん…
2024年5月19日 16:23
昨年、本部御殿手の取手の特徴について(1)と(2)の2つの記事を書いた。・本部御殿手の取手(1)ー座技と立技ー・本部御殿手の取手(2)ー対当身と対掴み手ー上記で、筆者は本部御殿手の取手には座技がないこと、また敵に手首等を掴まれてから技を掛け直す「対掴み手」技法もほとんどないと論じた。これは座技を基本とし、「合気上げ」に代表されるような対掴み手技法を重視する大東流合気柔術やその分派の合
2024年5月15日 23:04
先日、新たに見つかった宮城長順の写真を紹介したが、この写真は偽物ではないかと一部で疑問の声が上がっていることを知った。写真の宮城先生はほかの写真よりもふっくらして見え、ひげをたくわえているのも不自然だという。また撮影場所が本当にハワイかという質問もいただいた。結論からいうと、この写真は確かにハワイで撮影された宮城先生の写真である。なぜなら、筆者は写真が掲載されている原本を確認しているからで
2024年5月14日 08:07
ちょうど1週間前(2019年2月)、日本武道館で開催された日本古武道演武大会に出場して、そのとき控え室で様々な流派の演武をモニターで拝見していた。その中に剛柔流の演武もあって、東恩納盛男先生がカキエを演武されていた。パンフレットを見ると、「カキエ(靠基)」と書かれていた。しかし、筆者は「靠」という漢字は初めて見たので、そのときこの言葉が読めなかった。あとでネットで調べてみると、音読みで「コウ」
2024年5月11日 08:18
夫婦手(めおとで)は、唐手の構えである。通常は前手に後手を添える形で構える。しかし、両手(両腕)を添える構え方はほかにもあり、構え方は一つというわけではない。夫婦手で重要なのは諸手連動の「術理」であって、この原理に従えばさまざまな構え方がありうる。実際、本部朝基は複数の夫婦手の構えをしていた。さて、現在、夫婦手は本部流か本部朝基に教えを受けた人々が興した流派でしか見かけないようである。それゆえ
2024年5月10日 09:02
名声と誹謗中傷はしばしば表裏一体の関係にある。たとえば、本部朝基は若年の頃から「非常に武才がある」と松茂良興作に激賞され、長じてからも「三尺の童子にもその名を謡われている琉球武術の大家」(1)、「実践の強勇に至っては、郷里に誰も知らない人はいない大剛者」(2)、「(組手では)沖縄第一」(3)、「唐手実戦家ナンバーワン」(4)等と讃えられた。 一尺は長さの単位ではなく2歳半を指す。したがって、「
2024年5月4日 12:51
大正7年(1918)、本部朝勇は屋部憲通、喜友名親雲上、知念三良(山根のウスメー)等とともに、沖縄県師範学校で唐手の型ショーチンを演武した。ショーチンはソーチンのことである。このときの演武は、『琉球新報』で「唐手の達人達」と題して紹介された。糸洲安恒が亡くなってから3年後のことで、彼らが糸洲亡き後の、当時の沖縄の武術界の頂点に君臨する人々だったわけである。ところで、上記4名のうち、喜友名親
2024年5月2日 19:58
Facebookをご覧のかたはすでにご存知かもしれないが、少し前に最近発見された宮城長順のハワイでの写真が海外空手家のグループの間で紹介されていた。詳しい撮影場所や時期は不明だが、宮城先生は昭和9年から10年にかけてハワイに数ヶ月間滞在されていたので、その間に撮影されたのは確かである。この写真の画期的な点は宮城先生が空手衣を着ていることである。意外にも宮城先生の空手衣姿の写真は少ないのであ
2024年4月21日 21:40
琉球王国時代の空手家の肖像画というものは少ない。少ないというかほとんどない。唐手佐久川や真壁チャーングヮーはどういう顔をしていたのであろうか。そもそも琉球王国時代に描かれた肖像画というのは先日発見された国王の「御後絵」のような例を除くと、ほとんどないように思う。著名な政治家を思い浮かべても、蔡温はあるが羽地朝秀はない。「沖縄三十六歌仙」でも、いま思い起こしても一人も肖像画は残されていないように
2024年4月20日 13:42
競技化された現代空手では、基本的に想定する敵は一人である。組手試合では対戦相手は一人である。近年行われている団体形の演武では、複数相手と戦う「分解」が披露されることはあるが、そうした演武目的以外で、複数敵と戦う稽古を普段からするということは一般的ではない。そうした中で、本部御殿手は例外的に普段から複数敵を相手にした稽古を重視している流派である。複数を相手にした稽古は、本部拳法にもある。実際
2024年4月14日 10:13
空手の突きと柔術の突きの違いについては、以前アメブロのほうで述べたことあるが、最近SNSでその話題が持ち上がっていたので改めて紹介したいと思う。例として中段正拳突きを挙げると、空手の突きの特徴は以下のようになる。・引き手に構える。しばしば引き手側から突く。・手首を内旋させながら手の甲を上向きにして突く。・親指は四指で握り込まないで、人差し指の上に置く。これに対して、柔術の突きの特徴
2024年4月13日 13:41
先日、名嘉真朝増先生の孫弟子の方から、少林流松村正統の祖堅方範先生が名嘉真先生からピンアン初段と二段を習ったという話を記事に書いたが、その方から祖堅先生の「白鶴」の型についても興味深い話を伺った。YouTubeに祖堅先生の白鶴の型がアップロードされているが、実はこれは外国での演武で即席に創作した嘘の型だそうである。この話を名嘉真先生の孫弟子の方は祖堅先生の直弟子から直接聞いたという。筆者は
2024年4月12日 13:08
Facebookで山根流棒術の伝系について質問があって簡単な回答をさせていただいたが、改めてブログでもこのことについて書いておこうと思う。山根流は沖縄では明確に「家元(宗家)」を名乗った世襲流派である。下記の比嘉清徳先生に出された山根流の師範免許でも「家元 知念正美」の署名がある。家元もしくは宗家は日本武道で使われる称号である。元来は世襲が大半だが、明治以降、武道が衰退して親族に後継者がい
2024年4月10日 23:04
以前、三木二三郎・高田瑞穂共著『拳法概説』(1930)に記載の屋部憲通の「型の数」の話を紹介したことがある。もう一度、同じ箇所を引用する。上記によると、屋部先生は20年以上、二つの型しか練習していなかった。三木と高田はこの話を聞いて驚いた。そして、これこそ、空手の達人の有るべき姿であると感動したという。屋部先生と親友だった本部朝基も「型はナイハンチだけでいい」という考えだったことはよく知ら
2024年4月7日 11:13
空手の歴史を研究していると、こんな疑問を抱くことがある。それはある流派の型がいつのまにか増えていって、その過程が明らかでないというものである。たとえば、沖縄の小林流の開祖は知花朝信であるが、知花先生は何種類の型を教えていたのであろうか。小林流の道場の中には、50種類近い型を教える所もある。実は小林流のある先生によると、知花先生が教えた型は以下の通りだったそうである。・ナイハンチ(初段~
2024年4月5日 12:13
本部御殿手では、以前より空手(剛拳)と琉球舞踊の関係を強調してきた。それは、琉球王国では空手も琉球舞踊も職業専門家によって担われていたわけではなく、士族によって――しかもしばしば同一人物が――二つとも担っていたからである。いや、二者の「関係」どころか、二者が「融合」したジャンルがかつて存在した。それが舞方(メーカタ)である。音曲に合わせながら即興的に武術的な舞を披露するのが舞方である。中国
2024年3月29日 10:14
学生の頃、大学の図書館で『ニューヨーク・タイムズ』の音楽評論を長く担当していた名物評論家、ハロルド・ショーンバーグの『偉大なピアニストたち』という本を借りて読んだことがある。もう細部はうろ覚えだが、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンといった、著名な作曲家――彼等は同時に当時の一流のピアニストだった――から、20世紀のホロヴィッツといった巨匠まで、名ピアニストの生涯や逸話が興味深く紹