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温度がなくて、理性的で、丁寧な

 温度がなくて、理性的で、丁寧な文章だ、と言われた。

正午ごろのお気に入りの純喫茶で。食後のコーヒーを珍しくホットで飲みながら。

 完成形とは、違和感のないものだと思う。服装にしても、化粧にしても、文章にしても、歌にしても。見て、読んで、聞いて。おや?と思うものは、どこかに不具合がある。その不具合は受け手の注意をひきつけると、途端にほかの部分を覆い隠してしまう。人間はプラスよりマイナスを意識に残しやすい。

だから私は、自分の作り上げるものには違和感を残さないよう意識を置いている。

 “違和感”という感覚はどこからくるのか。

自分の経験から得られる美的センス。周囲の環境。

私だけだろうか、色んなものごとにルールを作っているのは。

 どんなに思うがまま文章を書き連ねている、とは言っても、実際本当に思うがまま書き続けていられるなら、私の手が止まることなんてないだろう。一文一文、書き終えるたびに3分以上思案の時間を必要とするのは、私が無意識のうちにとっちらかった頭の中を整理整頓した上で形に残そうとしているからに他ならない。

 私の文章を評価した彼の書いたものは、その言葉を私に納得させるだけの説得力を持っていた。

 書いているとうわぁっとなる__どんなに文字制限を与えられていても守ることが難しいらしいその感情の表現は、私なんかよりずっとはちゃめちゃで、散らかっていて、それでいて、ひどく自由だ。きっと私も本当にただ思いついたまま手を動かせばこうなるんだろうな、と思う。

 あまり理性的でない私の脳内は、気の緩んだ私を狙って、ときどき私 対 私の会話をさせるからだ(もちろん声に出してではないのだけれど、それでもときどき、自分の中で話し相手の区別がつかなくなって、一人でに返事をしてしまうときがある)。

そんな自分の思考をそのまま文にできず、ルールで自分を縛り付けているのは、きっと私自身の過去だったり、心理的な何かが作用しているからなんだろう。

いったいなんなんだろう。それは、もしかしたら。

 それが、彼が私にあると言った、私の気づいていない“傷”なのかもしれない。

 ルールを作っている、とは書いたものの、私はそれを自身で全く理解しているわけではないのだし。せっかくこうして文章を公開する形で残しているのだから、誰か私のような日本語研究者がいつか分析をしてくれないだろうかと、秘かに期待していたりする。

頻出語彙、共起語、品詞分解…どこまで私の意識は形になっているのだろう。それで他人が理解できるようになっていればいいのだけれど。

そんなわけで、分析データを増やすためにも、私はこれからも変わらず、文章を書き続けるつもりだ。

 温度のない、理性的で、丁寧な文章を。


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随分と前に書いたエッセイです。

私の他のエッセイは、個人HPにたくさんあります。

よければ記事「はじめまして」から読んでみてください。


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