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3/19(土)これは私の話だ/内田春菊『ファザーファッカー』

「これは私の話だ、と思った小説はあるか」という話題になったことがある。
小説はそれなりに読んでいるはずなのにその場で私だけ答えられず、皆に相槌を打つばかりだったのを引きずっていて、たまに考えていたのだけど突然思い出した。

内田春菊の『ファザーファッカー』だ。

共感したというには私のほうがおそらく格段にぬるい環境だったけど、秩序を乱す原因は私にあるとされていて、家のなかで「私の噂」が飛びかう感じが似ていた。

それに家にいるとき私はよく、父または母の恋人になっている夢を見て気味が悪かった。
性的な関係を強制されたことはなかったけれど、ただ、「大人扱いして責任を取らせること」「あらゆる話を打ち明けること」「本人に直接悪口を言うこと」などの距離感を、脳がどこかで恋人のようなものだと解釈していたのだろう。
(そういえば初めてカウンセリングを受けたとき私があまりにも言葉に詰まりながら話すので、「もしかして性的な被害ですか」と深刻そうに尋ねられた。)

家族のタチが悪いのは恋人と違って「関係性の誠実な合意」など存在しないことだ。
私の自らの意思が考慮されることなくいつの間にか親密な関係性を強要される。(精神的に)
こういうのはレイプと呼ばれたりしないのだろうか。しないのだろうけど。

ちなみに『ファザーファッカー』をどこで見つけたかというとこれは悲しくて面白い話で、母の本棚にあった。時代的な近さもありきっと私よりも母の方がもっと共感したことだろう。
なんならスーザン・フォワードの『毒になる親』も同じ本棚にあって、私は「毒親」という概念はインターネットでもSNSでもカウンセリングでもなく母の本棚から手に入れた。

これらの本がここにあるということは、きっと彼女は「違う」のだろう。聡明なあの人のことだから、歴史の断絶を選んでいるに違いないと信じていた。彼女も信じていた。
たしかに少なくとも私は身体的な暴力や経済的な非協力体制をとられることはなかった。その点についてはありがたいし、自分はラッキーな方だったと思う。
しかし悲しいことに私自身も『ファザーファッカー』に共感し、『毒になる親』概念を採用する道へたどり着いてしまった。

二代続けて読んでいるというホラー、あるいはエンタメ。知識だけがあってもどうしようもないのだ。悲しいことに。

去年から今年にかけて親しくなった友人の家にたまにお邪魔することがある。
寒ければ毛布を貸してくれて、喉が痛ければ飴をくれて、自分が着なくなった服をくれることもあり、ペットボトルを捨てるとき「ラベル剥がして洗って台所に置いておいてね」と言われるところが、実家のようで気に入っている。
心の中で勝手に友人とその家を〈イマジナリー実家〉と呼んでいる。

私の実家はあれではなくてここなのかもしれない。親に愛され、祖父母に愛され、気負わずにたくさん愛し返している友人の話を聞いて、自分ごととして空想してみる。思ったよりも嫌じゃない。
いつも鷹揚で優しい、ちいかわのような友人の性質もあるだろう。天性の素質のように思う。

そんな友人も夏には引っ越して東京を離れてしまうので期間限定のイマジナリー実家となり寂しい。行かないでほしい。

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