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サイコロシアン・ルーレット #7

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「……よしっ、ツイてる……! イケる……!」

血の勢いを確かめるようにヨハンは何度も手を握りしめる。対面のアイシャはそれを冷ややかな目で見ていた。気を抜くのが早い。これが後輩なら叱り付けていたところだ。

急げ。衝動が続いている間に。ヨハンは弾倉に弾を込めようとし、一度落とし、二度目で込めた。1。それは6分の1。つまり……

(ほとんど大丈夫だ……!)

少年は思考を打ち切る。あれこれ考える暇はない。逃げ切らなければ。弾倉を回し、銃口をこめかみに突きつける。わずかにこびり付いていた焦げた皮膚の感触が嫌なリアリティを放っている。だがこれは俺じゃない。絶対に俺じゃない。俺は絶対にそうならない! 引き金を引く!






カチッ……





「……!」

ヨハンは背中から滑るように椅子から崩れ落ちた。痛みではない。安堵によってだ。

「ははっ……はは、あははははっ!」

少年は笑った。今まで感じたことのない喜びが心の底から溢れ出した。嫌な音を立てながらズボンに暖かいものが染み出していくことすら、彼には祝福のように思えた。

「うわっ……」

『ブルーオーシャン』陣営の5番手、リーズがその愛らしい顔を露骨にしかめた。ヨハンは気にも留めなかった。狂ったように笑い、人生初めての勝利の喜びを噛み締めていた。

「見苦しいなァ」

ゴルデルが呆れたように言った。

「それに関しては同意です」

嘆息。ミハエルは指を鳴らした。黒服の1人が入ってきて、何事かと尋ねる。すぐにヨハンは椅子ごと運び出され、会合の間から姿を消した。

「で……こっちの番だね」

湿気った空気を割ったのは、アイシャの良く通る声だった。彼女はダイスを取り、指先で弄ぶ。その表情に笑みはない。敵が死のうが生きようが、やることは何一つ変わらないのだから。若干の腹立たしさは感じるが、それも心のうちにしまい込む。

いかなる時も冷静であれること。それがアイシャの数少ない強みだった。無論、彼女はロボットでもなければ、感情が無いわけでもない。家族や、気を許せる者の前では子供のように笑う。だがどこか、他の人間の持つ何かが。理性と感情を切り分ける妨げとなる、そんな何かが……磨耗し、欠落していた。


◆ ◆ ◆


アイシャは弱い。背は低く、力もないし、手先も不器用だ。だが子供の頃はそうではなかった。むしろ逆だった。常に誰かを虐げ、従えていた。けれども彼女の成長はそこで止まった。周りがだんだん彼女より大きくなり、立場が完全に逆転し、彼女が外に出られなくなるまでに、そう時間は掛からなかった。

自宅に取り残されている間も、時は流れ続ける。アイシャは世界を憎んだ。世界はアイシャを忘れた。アイシャもまた、憎しみを忘れていった。やがて父が死んだ時も、葬儀は母が行い、アイシャは自室に籠もっていた。だからその母が死んだ時、彼女にはどうしていいか分からなかった。齢30の少女は、放ったらかしにしたら蛆が湧きだした母を、ただ漫然と見つめていた。

「死んだらこうなるんだ」

アイシャはぼんやりと呟いた。父が死んだ時は、母が泣いていた。だから彼女も少し悲しかった。今は誰も泣いていない。だから何の感慨も湧かない。

「惨いなあ」

「そうだな、惨いもんだ」

後ろから男の声がした。彼女は振り返らずに言った。

「そうだね」

「お前は誰だ、とか聞かないのか?」

「じゃあ聞く。誰?」

「ゴルデル・ファミリーといえば分かるか」

「ゴルデル……?」

記憶をたぐる。家の外の光景はおぼろげで、褪せている。ゴルデル。顔のない誰かが言っている。あのクソども。クアドンの寄生虫。彼女はそのまま口に出す。

「クソどもで、寄生虫だっけ?」

「……間違っちゃねえかもな」

男は苦笑した。アイシャは振り返った。

「あなたは誰?」

「タリエイ・ゴルデル。寄生虫の親玉さ」

「何しに来たの?」

「迎えに来たんだ」

老年の男は膝を曲げ、手を差し伸べた。アイシャは迷わずその手を取り、立ち上がろうとして、よろけた。ゴルデルは抱きとめた。

「……と。大丈夫か?」

「うん」

人肌のぬくもり。包まれるような暖かさ。恋焦がれ、いつの間にか忘れてしまっていたもの。感情の枯れた瞳から、アイシャは何かが滲んでくるのを感じた。

「じゃあ行こうか。忘れ物はないか」

「ここには何もない」

「そうか」

亡骸を残し、2人は外へ出る。雲の晴れ間から日の光が差し込んでいた。十数年ぶりの刺激にアイシャは目を細める。軒先にはテレビの中でしか見たことのない、立派な黒い車が止まっていた。ゴルデルが近づくと独りでにドアが開き、2人を迎え入れる。

「ゴルデルさん、どうや……うぷっ!」

運転席の男、ラルフは反射的にえずいた。アイシャの臭いのせいだ。ゴルデルは咎めた。

「オイ、失礼だぞ」

「す、すんません、つい」

「どこへ行くの?」

平謝りするラルフに、アイシャは少女のようなトーンの声で尋ねた。彼は訝しみながらも、何とか冷静に答える。

「俺たちの家だよ」

「そうなの」

そこで会話は途切れた。ラルフは話題を探そうとした。

「ま、後は着いてからだ。住む場所なり何なりの手配もいるだろ。忙しくなるぞ」

「はい」

親父の言葉に、ラルフは車をゆっくりとスタートさせる。アイシャはガラス越しに、地球を眺める宇宙飛行士のように自分の家を見ていた。ラルフは強烈な臭いで頭がくらくらするのを根性で耐え、赤信号のわずかな待ち時間に黙祷した。

(アイシャさんのお母さん。娘さんのことは俺たちに任せてください。……安らかに)

【続く】

それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。