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小説『老人と海』を読んだ。

アーネスト・ヘミングウェイの小説『老人と海』を読んだ。

この小説は、キューバで暮らす一人の年老いた漁師と、彼が海で出会った一匹の巨大カジキとの三日三晩に及ぶ孤独な戦い、そしてその先で老人を待ち受ける結末を描いた物語である。

【書籍の概要】

  • 題名:『老人と海』

  • 著者:アーネスト・ヘミングウェイ

  • 総ページ数:192ページ

八十四日間の不漁に見舞われた老漁師は、自らを慕う少年に見送られ、ひとり小舟で海へ出た。やがてその釣綱に、大物の手応えが。見たこともない巨大カジキとの死闘を繰り広げた老人に、海はさらなる試練を課すのだが――。自然の脅威と峻厳さに翻弄されながらも、決して屈することのない人間の精神を円熟の筆で描き切る。著者にノーベル文学賞をもたらした文学的到達点にして、永遠の傑作。

Amazon商品ページより


【正直自分には刺さらなかったかなって…】

アーネスト・ヘミングウェイの小説『老人と海』。

とりあえず面白かったか面白くなかったかの話をする「面白くなくはないが面白いとは言い切れない」という感じだった。

面白くなかったわけではない。

物語自体はとても綺麗に纏まっていて、安定感のある読みやすい内容だった。流石はアメリカ古典文学を代表する作品と言われるだけのことはある……と思う。

でもじゃあ「面白かったですか?」って聞かれると、素直に首を縦に振ることはできなかった。

少し退屈だったというか、可もなく不可もなくな映画を見終わったときの「あ、終わった」という感覚に近いものがあった。

無理やりまとめるなら「ぼくには刺さらなかった」って感じである。







……カジキだけにねw


【中盤の動きの無さが読んでいて苦痛だった】

この『老人と海』は、とても静かな物語である。

登場人物は年老いた漁師サンチャゴのほぼ1人だけ。

他にサンチャゴを慕う漁師見習いの少年とか出てきたりもするが、それも最初と最後にちょろっと出てくるだけで、一度海に出てしまえば人間はサンチャゴしか出てこない。


自分以外に頼れる者もいない大海原のど真ん中で、5mはあろうかという巨大カジキに年老いたサンチャゴがたった1人で立ち向かう。

こう書くとなんとも格好の良い話だが、実際には小舟に乗ったサンチャゴがカジキに三日三晩海を引き回されるという、この上なく地味な持久戦を延々と見せられることになる。


この展開が俺にはもう退屈で退屈で退屈で退屈で……、正直に言ってちょっと心が折れそうになるぐらい辛かった。


もちろんサンチャゴもただ水面を小舟に乗って引き回されていただけではない。

文字通り体を張って釣り綱の張り具合を調節し、ほとんど身動きが取れない状態でカジキとの繊細な駆け引きを繰り広げているわけなんだけど……




いかんせん地味やねん! 絵面が!!!

舞台は海原。登場人物は小舟に乗ったサンチャゴひとり。駆け引き相手のカジキはほぼ水中。

傍から見たら船に乗って綱を担いだ爺さんが海を右から左に渡っているだけである。


のんきか!


もっとも、この作品がそう言う視覚的な楽しみ方をする類のものじゃないってことはもちろん分かっている。

楽しむべきは、文字通りの水面下の争いを繰り広げる老人サンチャゴの内面だってことは。

非力なジジィが怪物みたいな獲物を長年の経験と知恵、そして根性で攻略しようとする様が読者の感動を呼んだのだろう。


でもやっぱ絵面が地味すぎるんよ……。


【日本人にはあまり刺さらないのではないか説】

この『老人と海』を読み終わってからというもの、俺にはずっと頭の中で思っていることがある。

それは「この作品、日本人にはあまり刺さらないんじゃないか?」ということだ。

事実俺には刺さらなかったが、もちろん俺の感性が世間一般と同じなどという思い上がった考えは持っていない。

気になったきっかけは、読み終わった後にネットで「何故この作品は評価されているのか?」について調べていた時のことである。

『老人と海』についてネットで検索をかけてみると、だいたい謳い文句として『自然の厳粛さと人間の勇気を謳う』とか、『人間の尊厳、自然の厳しさと美しさを〜』とか、『自然の脅威と峻厳さに翻弄されながらも、決して屈することのない人間の精神を〜』とかが出てくる。

それぞれに共通しているワードを雑にまとめると、「自然の脅威に負けじと抗う人間の強さを謳った作品」と言ったところだろうか。

事実、どこのサイトに行ってもサンチャゴの不屈の精神がピックアップされ、『老人と海』の名言として以下のフレーズが毎回のように紹介されていた。

「だが人間は、負けるように造られてはいない。打ち砕かれることはあっても、負けることはないんだ」







いや、負ける時は負けるだろ。

俺は正直このフレーズに全く共感ができなかった。

人間負ける時は負けるものである。

ましてや相手は大自然。

自然の力の前では人間は無力!


……と、ここまで考えたところで俺はピンと来た。

もしかして俺にこの小説が刺さらなかったのは、俺の中に宿る大和魂が、ヘミングウェイの持つアメリカンスピリットと上手く噛み合わなかったからではないか、と。


たとえば、西洋と東洋で自然に対する認識が異なっているというのは有名な話である。

キリスト教的価値観を基盤とする西洋では、自然とは人間が支配するべきものだと考えられている。

一方で日本を含めた東洋では、人間も自然の一部であり、無理に自然に逆らわずありのままを受け入れるべきだと考えられている。

そして純日本人である俺の自然観はもちろん後者だ。

つまり、自然を抗うべき存在だと捉えている西洋人からしたら巨大カジキに負けじと立ち向かうサンチャゴの姿は深い感動を呼んだのかもしれないが、自然を抗うべき存在だとは思っていない日本人的価値観の俺にはそこが上手く嵌まらなかったのでは無いか、という話である。


どうだろうこの仮説。
個人的には結構いい線いってるんじゃないかと思ってるんだけど、流石に日本人全体の感性に拡大解釈するのは無理があるだろうか?

ただ、この説を唱える上で気になっていることがもうひとつある。


それはサンチャゴがカジキとランデブーしている最中にちょいちょい挟まれる食事シーン。

釣り綱を支えていて満足に身動きが取れないサンチャゴは片手間で釣り上げた魚やらトビウオやらエビやらをその場で捌いて食べるんだけど、あれ生食の文化があるかどうかで絶対受け取り方違うよね。

魚の生食文化があまり無い地域の人(例えばアメリカとか)が見たら、サンチャゴが生魚を食べて滋養だなんだとのたまうシーンはきっと泥水をすするレベルの強い覚悟を感じさせたと思う。

しかしながら我ら日本人にとって魚の生食なんて日常も日常。強い覚悟どころか、「やっぱ捕れたてだとその場で捌いて食えるもんなんだな〜」ぐらいに思っただろうし、何なら捌いたあとの身を海に捨てるシーンで「えーもったいない」ぐらいには思ったはずである。

終盤のサメに食い千切られたカジキの身をサンチャゴが少しむしって食べるシーンなんて、日本人のほとんどはサンチャゴの情緒そっちのけでカジキの味を想像するんじゃないだろうか?



おわり

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