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個人的に怖い要素①〜⑭

自分の性癖を開拓するつもりで書いています

①「距離感」

2ちゃんねるの怖い話「猛スピード」や「クネクネ」など、ふとした拍子に遠くにいる何かの存在に気付いてしまうのが怖い。流れとしては、その何かが遠くにあるのをじっと凝視→ その遠くにある何かと自分の間にある距離感が意識されたうえで...→ その何かが近づいてくる→ヤバい!という一連の流れができると更に怖い。

②「森」

 ごくごく個人的な怖さなのだけども、夜の森はヤバいという感覚がある。夜の森に行くと、自分の立てた物音に反応して虫の鳴き声が止む瞬間がある。じっと待っていると再び虫が鳴き始めるのだけども、こうした瞬間においては自分の存在に気付いている虫がウジャウジャとそこら中にいる光景が想像されて怖い。もちろん集合的なものに対するキモさもあるけども、概念として「人間のための場所ではない領域に入り込んでしまっている」という感覚があって怖い。幽霊とかではない、さらに原始的な恐怖を感じる。

③「古代のビジュアル、アルカイック・スマイルとか」

やたら目が大きいシュメール人の石像とか、キリストの三位一体を表現するために顔を三つ繋げたキリスト像の絵などなどが怖い。何をモデルにしたらこのような発想が浮かぶのか疑問が浮かぶタイプの、古代のビジュアル全般。諸星大二郎の漫画だったら「こんなビジュアルの異形の存在はかつて実在した!それは彼方からやってきた!」とかいう展開になりそうで好き。

④「自分の理解を超えた存在と接し、自分なりの解釈でそれを認識する」

「自分の視力の限界を超えたところに誰かがポツンと立っている。その誰かは微動だにせずこちらを向いている。もっと視力があれば、その誰かの顔の表情が見えるのかもしれない。が、自分の視力が悪いせいか知らないけど表情が見えない」。ここに、自分の視力が悪いせいなのか「そもそも表情が無い顔」ということなのか分からない余白がある。この場合、そのポツンと立っている人をじっと見ているうちに、「あれはひょっとして〇〇さんじゃなかろうか?」などと勝手に考えが広がっていってしまい→「じゃあ、あれが〇〇さんだとして何故ここにいる?何故こっちを見ている?」というふうに混乱が深まっていってしまう。

これに近いような認識の話だと、稲生平太郎「何かが空を飛んでいる」の一編、「小人たちがこわいので」で仮説として示されているような例がしっくりくる。「僕たちの世界の通常のリアリティを覆す『何か』がときおり僕たちの世界を侵犯、あるいは世界の深淵から浮上ーその結果、それをトリガーとして、僕たちは妖精や宇宙人といった幻想に襲われ、妄想体系を構築する」(「何かが空を飛んでいる」p.31 2〜4行目)。このような、何かを認識する側の心の動きについても考えていくと、怖さの格が上がる気がする。

例えば、ヴィクトル・エリセ監督の映画「ミツバチのささやき」では、主人公が映画「フランケンシュタイン」を観て怖い!と思った→後に、森の中で怖い何かを見た→怖い!といえばフランケンシュタインの怪物なので、その怖い対象をフランケンシュタインの怪物として認識した、という場面がある。こうした認識の仕方についても細かく描写されている作品は滅茶苦茶好き。

⑤「死ぬことによって人が別のものに変貌する」

「生前は穏やかな人が死んだ後、不可解な現象が起きるようになった。その死んだ人が原因の現象らしいが、何故そんなことするのか見当もつかない」というパターンも怖い。また、黒沢清が映画「霊的ボリシェヴィキ」のトークショーで言っていた「人は死ぬことによって狂い、別の何かに変貌してしまうのではないか」という考え方も好き。こうして、幽霊が怖いというよりも、死を通して人が人ならざるものへと変貌してしまう世界のシステムそのものが怖い!という話へと広がっていく。


⑥「その人にはそう見えていた」

実話怪談などで、AとBという人物が心霊スポットに行くなどして、同時に怪奇現象を体験したとする。後になってその怪奇現象についての証言が食い違い、A「いや、あれって〇〇だったよね...」B「いや、あそこにあったのはXXで…」となったりするのが怖い。違う角度から同じ現象を捉えることで怪奇現象の不可解さが強調される展開。人には全貌を捉えきれないような超常的な何かが確かにそこで起きたのだ、という実感が強まって怖い。

自分の恐怖体験について説明する語彙から、その本人の生々しい生きた体験が感じられる。他人の言葉を借りてきたものでなく、自分の生きた感覚から生まれた独特な言葉遣い・言い回しで語る。その本人が恐怖体験を克服すべく、出来るだけ全てのことを説明し尽くそうとしている、だが説明しきれてはいない余白が残されていたりすると、なお良い。

⑦「ふと立ち止まってしまう・なぜか気になってしまう」

天井の木目をじっと見ていると顔に見えてきたりする(パレイドリア効果、シュミクラ現象などと呼ばれたりしているらしい)。このような、普段だったら何でもないものがふとした拍子に気になってしまい、一度気になったらもう止まらなくなり、あれ??という風にヤバい精神状態になるのは怖い。陰謀論などを信じる心の動きなどにも近いようなものがあると思われる。例えば、何かアイデアが浮かんでくる時は独特のハイな感じになるけども(大抵は翌朝になってみるとなんでもなかったりしてガッカリする)、こうしたハイな状態がずっと続いてしまうのが陰謀論とか偏った考え方に陥る心理なのではないか。

何かに対してふと気になって怖くなってしまう状態がダウナーなものだとして、陰謀論みたいな「ぼく、分かっちゃったんですよ!」とかいう状態はアッパーなものだと思われる。双方の考えの流れは同じで、その方向が両極端。

⑧「軽く見上げる位置、二階に何かがいる」

これはごくごく個人的な怖さなのだけども、深夜に住宅街を歩いているときなどに、ふと家の二階の窓を見上げてしまうときが怖い。個人的には、不思議と、同じ視線の高さに「何か」がいるよりも、自分の目線よりも少し高い位置にいた方が怖いように思われる。これは恐らく、ふと何気なく見上げて気付いてしまう過程があるからだと思っている。また、視野には入っているものの、視野の外側に近いところにあるため、さほど気にしない領域が原因の怖さもあると思う。

⑨「寸尺がおかしい」

「人型の何かが立っていたのを見た。後から思い出すと、あの人型の何かのそばには5メートルほどの木があって、人型の何かはその木より高かった。だとすると人型の何かは5メートル以上の高さだったということになるけど...」みたいな話が怖い。

⑩「そもそも生前から異常だった人が死んだら限度がなくなる」

稲川淳二さんの怪談に、座敷牢として使われていた部屋にとりついている幽霊(元・その部屋の中にいた人)に憑依されてしまう話があった。その怪談の主人公は精神を汚染された結果、その部屋で首を吊りそうになるのだが、その直前に部屋のすりガラス越しに霊的なものと視線が合う。その霊的なものは明らかにイッてる目の向き方をしており...というポイントも怖かった。

⑪「偽の怪奇現象を作った結果、本物の恐怖に脅かされるハメになる」

「学校の怪談 呪いスペシャル」のなかの一編、「恐怖心理学入門」のような話も怖くて好き。大学の心理学の講義で幽霊をでっち上げる実験をした結果、ほんとに幽霊のような女が出てきてしまったという話。他にも「世にも奇妙な物語」で秘密裏に都市伝説を作っている企業に勤めている者が、創作上の存在である「綿毛男」そのものに変貌してしまうという話も気味が悪くて好き。怪異を舐めている奴らが、本物の怪異によって「分からせられる」。

⑫「怪異が凶悪すぎて話が中断している」

「茶碗の中」、「赤いクレヨン」など、話の語り手が何らかの脅威にさらされて話が不完全なまま終わっているというもの。これがとても怖い。

⑬「作品内での恐怖についての思想が示されている」

何かを怖がる側の、恐怖に対するそれなりの立ち位置や考え方が示されていると良い。創作者の恐怖に対する思想とかが表明されている作品などが好き。「呪怨・呪いの家」では、「もちろん人も怖い、でも...」というふうに全ての背後にある凶悪な何かが強調されていたように思う。こういった思想というか、恐怖に対する思想みたいなものが垣間見えるのが好き。

⑭「断言を避けた表現、ぼんやりしつつも具体的な表現」

「幽霊がいて...」とかではなく「なんか白い人たちが...」の方が怖い。「UFOが...」ではなく「赤い光がフーッと雲の切れ間を...」のほうがゾクゾクする。怪異の体験者の証言について「〇〇はXXだと言っていた。まあ真偽は明らかでないが...」というボカし方があると盛り上がる。幽霊とかいう固有名詞を使うと、それぞれが幽霊について持っている「ああ、あれでしょ?」というイメージを想起させてしまう。そうではなく、そもそも起きた怪奇現象そのものを描写した方が不気味さが増して良いと思う。確か小中千昭さんも本で書いていたと思う。






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