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わかるような歳になってしまった

部屋の片付けをしていて、ふと目に入った『停電の夜に』を読み出してしまった。
昔、遠い昔に読んで、名作と聞きながらもあまりその評価の意味がわからず、でも喉に魚の小骨が刺さったかのようにずっと意識の底にこびりついて離れなかった物語だ。
あれから10数年。
いやもう20年近いのか。
停電の夜の、ふた晩目でもうだめだった。
泣けて泣けて、涙が止まらなくて、視界の文字がどんどん滲んだ。
失ったものを取り戻せるかもしれないという淡い期待と、積み重ねてきたものを終わらせるための心づもりと。
どこからすれ違っていたのかな。
あの頃には読みとることのできなかった書かれない女の気持ちも、揺れ惑う男の気持ちも、どうしてこんなにはっきりと文章の上に現れているのか。
そういう歳になってしまったんだな。
男女の機微も人生の悲哀も、それなりにわかるように、人生を歩んできたんだなあ。
思えば遠くへ来たもんだ、掃除をほっぽり出しながらしみじみ思う。
『停電の夜に』。なるほど、小娘の私にはわからなかったがこれは確かに名作だ。
でも今の私にわかることは、これが名作ということだけじゃない。
月並みだけど、終わりがあるからこそ始まることもあること。そして傷ついてもう二度と交わることはないと思うような終わりを迎えた関係だって、時が巡ればふと新しい形でまた芽吹いたりもすること。新しく何かが始まらなかったとしても胸を抉るような終わりは終わりで、長い目で見ると人生の美しい傷になること。
「終わり」の趣深さを覚えたら、人生は千倍楽しめるようになる。
そんなことも、わかるような歳になってしまったんだなあ。

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