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びょうきとたたかう ことへの違和感

おはようございます。

今日はずっと感じていた違和感のお話しをします。

わたしは自己紹介でも書いたように、数年間がんと向き合ってきました。
そして、多くの人はそのことを「闘病」、もしくは「病気と闘ってきたんだね。」と表現します。病気と向き合っている最中の方でも、「わたしは負けない。病気と闘う!」と表現される方もいますよね。

わたし自身はというと、いつもその言葉に違和感をおぼえていました。
どうしても闘う気にはなれなかったし、悪いものとは感じなかったからです。

それは苦しみがなかったわけではありません。むしろ苦しみはたくさんあったし、もちろん逃げたくなったこともたくさんあるし、病気であることを悔やんだことは数知れずありました。病気を憎んだことだってあります。

だけどそれでも、そんな時でも闘うという表現はしっくりこなくて

びょうきって名前はあるけど正体はないというか、ひとそれぞれですよね。
ひとのからだって恒常性、homeostasisが備わっているから、いつも本来の状態に戻そうとしてくれる。びょうき や しょうじょう ってそのためのサインだったりする。

だからびょうき という悪が存在するわけではなく、その状態も含めて自分自身なんだと感じたのです。

わたしは今振り返ると子宮がわたしを守ってくれたんだ。気付きを与えるために働いてくれたんだ。そんな風に愛おしく感じています。


でも、ひとつ付け加えたいのは、びょうき の真っ只中で、苦しくて、やりきれなくて、大変な状況の方にこの考えを押し付けたいわけではないのです。
だって苦しみの真っ只中なのに、これは悪いことじゃないんだから恨んじゃいけないんだ!なんてまた一層じぶんを責める必要なんてないから。
色んな感情になる自分自身を認めて寄り添ってあげて欲しいなって思います。

ほんとうにびょうきと向き合うことって、じぶんと向き合う、
最強のinner workだなあと思うのです。

間違いなくわたしのinner journeyはびょうきと向き合うところから始まりました。

ありがとう 教えてくれて

ありがとう わたし

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