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鼻血デマと公務員宿舎明け渡し裁判をまとめる


加藤文宏

当記事の内容


 原発事故にまつわる被曝で鼻血を流す人の噂は、2011年3月14日に『Yahoo!知恵袋』へ投稿されたものが初出と言ってよいだろう。この噂話は広がることなく消え、のちにツイッター上などでインフルエンサーが鼻血を話題にしたものの否定されて消えた。その後、5月19日発売の週刊文春5/26号の『肥田舜太郎 内部被曝患者6000人を診た医師が警告する』と題する記事が注目され、6月18日に東京新聞が『こちら特報部[子に体調異変じわり]』と見出しをつけて福島県で鼻血を流す子供がいると伝え、12月2日に朝日新聞が『プロメテウスの罠[我が子の鼻血、なぜ]』で町田市の小学生が大量の鼻血を流したと報じると、鼻血を真実と確信する人と否定する人に世の中が二分された。
 2014年4月28日に発売された小学館ビッグコミックスピリッツ2014年No.22、23合併号『美味しんぼ[第604話 福島の真実その22]』で鼻血が取り上げられたものの、潮目は変わり完膚なきまでに批判されて鼻血がデマであることが確認された。この出来事から10年後の2024年8月5日、学生で活動家の鴨下全生氏によって再び被曝による鼻血が蒸し返された。
 なぜ今更、鼻血なのか。なぜ彼は、事実を認められないのか。背景にある公務員宿舎明け渡し裁判とともに、当記事で整理する。

1 時と場所を明らかにできない鼻血

 鴨下全生氏は2011年3月12日に、いわき市から関東へ自主避難したとされている。だが避難の行程と仮住まいについて彼の父親祐也氏の証言と母親美和氏の証言は度々食い違い、レジ袋や洗面器に鼻血を受けざるを得ないほど出血した子供がいたのは、いつの、どこの避難所だったかわからない。一家が鼻血について語るとき、一度たりとも時期と場所が具体的に語られていないのである。
 注意しなければならないのは、福島第一原発の建屋が水素爆発を起こしたのは12日午後3時36分である点だ。祐也氏は

翌日12日の早朝、明るくなるまで待って、家を出ました。原発が異常だということはわかっていましたから。
(略)
車で49号線から白河市に向かい、国道4号線に出ました。父の実家の横浜市の保土ヶ谷に着いたのは13日の未明でした。

 注:保土ヶ谷はあるのは妻美和氏の実家であり「義父」の誤り。https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2541ab85cc46ced218eb08dc40ccbc9c385dcf74

とインタビューに答えている。福島県における3月12日の日の出は午前5時54分なので、一家は午前6時頃に自宅を出立したのだろう。移動には平時より時間がかかったと思われ、午後3時36分にどこまで到達できていたかわからないものの、いわき市は水素爆発によって避難する必要がなく、山間部を越えた先にある中通りの白河市周辺も同様だった。また避難指示が出て一家より遅く二本松町などへ脱出して、同地で長期間避難生活を送ることになった人々のなかに大量の鼻血を流す者はなかった。
 関東到着後の行動については、

その後、横浜の保土ヶ谷からは東京の実家に移動し、実家の近くにアパートを借りました。息子はその近くの小学校に転入させました。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2541ab85cc46ced218eb08dc40ccbc9c385


と証言している。これでは避難所で鼻血を流す子供と出会う機会がなかっただけでなく、後述する都内の公務員宿舎に身を寄せる必要もなかったことになる。
 もし横浜市保土ヶ谷区にある親族の家から近い避難所に一旦身を寄せたのなら、鼻血を流す子供がいた避難所は港北区岸根町にある県立武道館などだろう。東京都へ入ったなら、東京武道館や東京ビッグサイトなどだろう。だが、神奈川県および東京都に設けられた避難所で大量の鼻血を流す子供がいたとする記録は自治体にも、協力団体にも、報道にも残されていない。
 では全生氏による『福島に行って鼻血が出た話(2024.08.05)』を検証しよう。
 この文章も「いつ」の話なのか記述が一切ない。
 一つ前の記事『故郷を訪ねて・・・』は「奥に福島第二原子力発電所が見える。強い日差しで肌が焼けるような暑さを感じる8月1日。」と書き起こされている。したがって『福島に行って鼻血が出た話』は8月1日の体験をまず書いているものと思われる。「伝承館に入り、最初に5分程度の映像を見る。迫力のある映像に流石だなと感じていると、唇に何かが触れるのを感じる。鼻血である。やばい、と思ったときにはもう遅く、鼻を抑えた手に血があふれていく。」は同日の鼻血なのだ。
 続いて、

あの時、避難所には鼻血を出す子どもが多くいた。しかも、尋常ではない量の鼻血を出す子が沢山いたのだ。レジ袋や洗面器で鼻血を受けながら歩いている子ども。共同洗濯場では、布団についた鼻血をどうするか母親達が話し合っていた。私自身も、洗面器で受けるような鼻血が繰り返し出続け、最終的に、手術をして鼻の血管を焼き切ることにした。私にとって、初めての手術でとても辛かったのを覚えている。当時は、これが何なのか分からなかったが、後から、双葉町や宮城県丸森町といったプルームが通った地域で、鼻血の症状を訴える人が非常に増えていたことを知った。被曝の量から考えてこの症状が急性被曝による確定的影響ではないことは明らかだろう。ただ、自分の避難所だけでなく、多くの地点で何かしら異常なことが起きていたようだ。

と書かれているが、「あの時」がいつで、「避難所」がどこなのか早速わからなくなる。
 大人は1リットル、子供はさらに少ない量の出血で生命に危険が及ぶ。ティッシュペーパーなどで止血できず、容量が約3リットルの標準的な洗面器を持ち出さなくてはいけない出血なら救急搬送された子供がいても不思議ではない。これくらいナンセンスな描写を全生氏はしている。
 私は彼のポストに向けて、子供たちが鼻血を大量に流したのはいつ、どこで発生したできごとか質問を投げかけたが返答がなかった。こうなると双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館で介抱されるほど出血したとする体験談も真実かどうか怪しくなる。
 続いて美和氏の体験談を紹介する。

避難所や避難住宅では、うちの子に限らず、鼻血を出す子が多くいました。それも、見たことのない程、酷い鼻血です。吹くような、吐くような勢いで、鼻血が両鼻から出たり、それが喉をまわって口からも出る。綿やティッシュでは追い付かず、洗面器やレジ袋で、流れ出る血を受ける子どもたち。それが30分経っても治まらない。深夜に、若い母親から、どうやったら娘の鼻血を止められるのかと相談を受けたこともあります。結局、息子は手術で鼻血を止めました。テレビでは環境大臣までが、原発事故と鼻血の関係を否定しましたが、科学は現実に起きていたことを否定できるものではありません。実際に、岡山大・熊本学園大・広島大らのプロジェクトチームによる疫学的調査でも、当時の鼻血には有意差があることが認められています。

伊方原発運転差止等請求事件本案訴訟 意見陳述要旨

  これは「伊方原発運転差止等請求事件本案訴訟」への意見陳述要旨として書かれたものだが、やはり避難所の場所が明らかにされていない。大量の鼻血が出たのは、

避難生活は困難を極めました。始めは私の実家のある横浜へ。次は夫の親が暮らす東京へ。親族とは言え、そう長く居候もできませんから、その後はアパートやホテルを転々とし、4月の末にやっと避難所に入り、夏には古い官舎の避難住宅へ。

原文ママ

と書かれていることから2011年4月あるいは夏季にかけてのできごとらしいと想像するほかない。だが祐也氏が語る自主避難の経緯と整合性が取れない。
 以上から、流れ出す鼻血をレジ袋や洗面器を使って受ける全生氏の描写は、母親の記憶または証言が出典と言ってよいのではないか。両者の証言は自らの体験談であるにもかかわらず、5W1H=When(いつ)、Where(どこで)、Who(誰が)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように)の基本中の基本「いつ」と「どこで」を書かず、あるいはひどく曖昧なまま、他の事実関係より鼻血ばかり強調している点が共通している。
 意見陳述のための文書にさえ、時と場所を明らかにできないのだからよほどの理由があるに違いない。
 そもそも首都圏では朝日新聞『プロメテウスの罠』が描写した布団を赤く染める鼻血が最大の出血量と言え、全生氏と美和氏が語る規模の鼻血は反原発色を強く打ち出していた報道機関や団体でさえ報告していないのである。
 鴨下祐也氏、美和氏の自主避難についての証言を他の出来事とともに整理すると以下の図になる。ビーフォレスターという自然保護活動と宿舎立ち退き訴訟については後述する。

2 700坪近いと見られる小金井の家とミツバチの森

 鴨下祐也氏が避難者へ提供されていた都内の公務員宿舎を退去したくないと裁判で訴えているのは知られている。祐也氏の主張と裁判の様子を調べているとき、彼の名前と住所を東京都小金井市の広報で見つけ、同姓同名の人物ではないのを「ビーフォレスター(ミツバチ達と森をつくる監理人)」という自然保護運動のWEBサイトで確認した。

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