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宗教をバカにしてきた日本が騒ぐ キリスト教を揶揄と批判された開会式

パリ五輪の開会式で、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画『最後の晩餐』の構図をパロディー化したと思しきセレモニー終盤の演出が批判を浴びた。
タレントがギリシア神話に登場する「豊穣の神」ディオニューソスに扮して全身を青く塗った姿で登場。イエス・キリストや12使徒たちはLGBTQ風にキャスティングされていた。
開会式が中継されると、これらモチーフと演出は日本でも話題になり不快感を示す声が目立った。

加藤文宏

 『最後の晩餐』ショーとも呼ぶべきものへの不快表明は、青塗りのディオニューソス含めLGBTQ風のキャスティングと演出への違和感や不満から生じたものだった。
 最後の晩餐とは、イエス・キリストが磔刑に処される前に使徒と最後の食事を共にする場面だ。
 同性愛は旧約聖書の『創世記』で罪深い都市ソドムやゴモラが言及されるだけでなく、新約聖書では「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、(中略)略奪する者はみな、神の国を相続することができません」と書かれているほか、他に数カ所で同性愛行為を禁じる言葉が記されている。したがって、敬虔なクリスチャンにとって最後の晩餐にLGBTQ風の演出を加えるのは最大の侮辱行為だった。たとえLGBTQ風でなかったとしても、シリアスかつ重要な最後の晩餐の解釈を変えれば騒然となって当然だろう。
 フランス左翼党の共同党首を務めていたジャン=リュック・メランションも、「キリストとその弟子たちの最後の食事であり、日曜礼拝の基礎でもあるキリスト教の最後の晩餐を嘲笑するのは好ましく思わなかった。もちろん、『神を冒涜している』という批判には触れない。それは誰にとっても関係ないことだからだ。しかし、信者を怒らせるリスクを冒すことに何の意味があるのか?」と語っている。反教会主義で反宗教的な立場を取るメランションでさえ、クリスチャンの感情を逆撫でて得るものはなく、これではぶち壊しなのを自覚していたのは興味深い。
 この他、キリスト教を冒涜したようにイスラム教を冒涜できるのかと問う声もあった。
 パリ五輪の広報責任者は、開幕式の翌日「私たちにはいかなる宗教団体や特定の信念を軽視する意図はない」と公式に謝罪した。

 不快感や懸念を表明したのはクリスチャンだけではない。
 日本はクリスチャンの割合が1%程度で、新興のキリスト教系宗教の信者を除くと0.8%程度まで減るが、X/ツイッターの発言を追うYahoo!のリアルタイム検索では開会式での「最後の晩餐」(ショー)へのネガティブ評価が70%台に達した。
 これらの反応を読んでみると、LGBTQ風の演出に苦言を呈する者だけでなく、クリスチャンの神経を逆撫ですることへ懸念を語り、メランション同様に信者を怒らせるリスクを心配する者が少なくなかった。こうした心配が脳裏をよぎるのは、日本の社会でも挑発と扇動で分断を図る出来事が目立つからではないだろうか。
 年始早々に発生した能登半島地震では、国と自治体がまじめに救援と復興に取り組んでいるにもかかわらず、被害状況や地形などを無視して権力者は被害者を冷淡に捨て去ろうとしていると騒いだ政治家や活動家がいた。神宮外苑再開発でも、事実を無視して不安を煽って計画を阻止しようとする政治家や活動家がいた。

 しかし、かく言う日本人が宗教を長年に渡って馬鹿にしてきた。
 自分にとって理解し難い集団や、こうした集団特有の考え方を「宗教」と呼び揶揄する。さらに高じると「カルト」と呼ぶのが最近の流行りだが、権威的な宗派から見た異端の宗派を指すカルトとはまるで別の意味で使用されている。
 安倍晋三元首相暗殺事件のあと自民党とともに追及された統一教会(世界平和統一家庭連合)も、宗教用語のカルトではなく理解し難い集団、犯罪的な集団としてカルトと呼ばれた。
 教団は2009年のコンプライアンス宣言で、高額の献金を受けるとき確認書を取り交わすようにしたとか、これによって訴訟件数が撃滅したとか、誰も壺を売ったり買ったりしていないと、いまさら言ってもカルトが口癖になっている人々は馬耳東風だろう。
 やたらに奇怪で淫猥なものとして語られる合同結婚式が、家庭の在り方や結婚についての講義を受けたうえで行われるお見合い結婚の結婚式であると言ったところで、やはり糠に釘になるのは間違いない。合同結婚式で結ばれることを教団は祝福結婚と呼び、講義に通わなくなる人がいて、お見合い写真を見て断る人や、相手は外国人だが海外生活が可能かと確認されて断る人もいて、どこにも強制や洗脳は介在していないが、これまでの報道は実態を歪曲したり脚色して伝えてばかりいた。
 暗殺犯山上についても報道は混乱していた。山上の母が宗教を頼りにしたのは、長男に小児がんが見つかり、夫が働かず、実の母が白血病で亡くなって、実践倫理宏正会で熱心に活動するようになり、夫が交通事故などトラブルを起こした末に自殺したあとだ。既に家庭は崩壊していたし、山上が大学へ進学しなかったのは金銭的な問題ではなく学力に難があったからで、献金のうち5,000万円は返金済みである。これら山上についての情報は断片的に報道されたが、利害関係者の証言が事実を覆い尽くしてしまった。
 もし例示したものを何ひとつ信用できないと言うなら、それは能登半島地震や神宮外苑再開発で、事実とかけ離れたリポートをする政治家や活動家と、これらを拡散したマスメディアの報道を鵜呑みにして、あやまった権力批判を繰り返す人々の姿勢と何ら変わらない。
 なぜ、このような状態が2年間も続いたかといえば相手が宗教だからだ。
 統一教会の活動にアクティブに参加する信者は5万人程度だ。甲子園球場のスタンドを満員にしたくらいの人数と言えばわかりやすいだろう。創価学会のアクティブな信者は500から600万人だ。統一教会の信者に出会うのは稀としても、創価学会の信者とはどこかで出会ったことがあるはすだが、やはり彼らのことも脚色された印象で語られている。
 人々は虚実取り混ぜたゴシップを、信者らの実像や言葉よりも信用している。

 最後の晩餐ショーへ「キリスト教を冒涜したように、イスラム教を冒涜できるのか」と声をあげた人々がいたように、私もマスメディア関係者に「反撃してこない相手と見て統一教会について偏った報道をするのか」と問いかけたことがあった。すると「報道が偏っているのは自覚している。しかし組織のなかで統一教会を公平に扱おうと言えばズブズブ呼ばわりされて、次の人事でひどい扱いを受けそうだ。だから従うほかないと皆が思っている」と答えが返ってきた。
 統一教会の信者でないにもかかわらず罵声を浴びながら声を上げる機会を探してきた私だが、仕事を失いたくない報道関係者の気持ちは想像できる。この人に教団の信者が経験した絶望を伝えたところ、とてもばつが悪そうだったが「では偏りのない報道をします」と言えない理由も承知している。まったく納得できないが、誰もが持っている弱さと、組織への恐怖心まで否定するつもりはない。
 また宗教を馬鹿にするのが習慣になっているにもかかわらず、クリスチャンの神経を逆撫ですることへ懸念を語る人の矛盾をおちょくるつもりもない。ただし率直に言って、最後の晩餐ショーを大真面目に論じながら、足下にある日本の信教の自由について頓着しない様子には呆れた。
 誰かを蔑んだり怒らせるために、この一文を書いたのではない。
 事実と危機は足の裏に張り付いた小さな苛立たしい違和感にあると、一人くらい気付く人が現れることにささやかな期待を抱いてみたのだ。

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加藤文宏
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