語られてこなかった自主避難/母たちを動かした助言者と支援者の実態
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加藤文宏
前回
なぜ母親たちは自主避難を選択したのか
250キロメートルも離れた場所から
2011年3月11日に発生した福島第一原子力発電所事故に際して、首都圏で被曝を恐れる人々がいたのは奇妙なことではない。ところが真偽不確かな情報を真実であると確信する者が多数現れ、しかも科学的で合理的な説明を受け入れず、家族を割ってまで母子のみで関西や沖縄などへ避難する者が現れたのは反応が過剰すぎるように思われる。
事故を起こした福島第一原発から東京都は約250キロメートル離れている。1979年に事故を起こしたアメリカのスリーマイル島原子力発電所とワシントンD.C.間が約140キロメートルであるから、さらに離れていることになる。スリーマイル島原子力発電所事故の住民の退避状況について、内閣府原子力委員会は風下のミドルタウンでほぼ100%、5マイル(約8キロメートル)以内では約50%、20マイル(約32キロメートル)以内の10%程度の人が退避した模様としているが、85マイル相当(約140キロメートル)離れたワシントンD.C.からの自主避難や同地でのパニック現象は報告されていない。
福島第一原子力発電所と東京間250キロメートルは、スリーマイル島原子力発電所とニューヨーク州のロングアイランド島の距離にほぼ等しい。ロングアイランド島より原発に近い同州のマンハッタン島から避難者が出たとする報告は、ワシントンD.C.のケース同様にまったく見当たらない。両原子力発電所事故は様相が異なるため直接比較することはできないが、首都圏から自主避難者が出た我が国の状況はかなり異常な事態だったと言ってよいだろう。
女性Bに芽生えた不安
Bは都心部から20キロメートルほど離れた住宅街で暮らしていた。地震が発生した3月11日は有給休暇を取っていた夫ともに、停電によって信号が止まった交差点で歩行者を誘導したり、夜遅くまで歩いている帰宅困難者に休憩できる公園の場所を教えるなどして過ごした。翌日、福島第一原発1号機の建屋で水素爆発が起こる様子がテレビで放映されたが、夫婦ともに心配はしたものの避難する必要性は「考えもしなかった」。むしろ夫とともに、天井が崩落して死傷者が出た千代田区の九段会館や、関東各地で発生した液状化現象を心配した。
彼女に懸念が芽生えたのは3月19日に「福島県と茨城県で採取された牛乳とホウレンソウから暫定基準値を超える放射性ヨウ素が検出された」と報じるニュースを見たときだった。茨城県はBの出身地だったこともあり、「放射能が目と鼻の先にきているのかと実感が半端なかった」という。
翌日、通い慣れたスーパーマーケットに行くと野菜売り場に「北関東・東北産は扱っていません」と張り紙されていた。惣菜や弁当の陳列を前にして「何も書いてないけど、材料の産地はどこだろうと疑問を感じ」て「ずるいことをしているのではないか」と不信感を抱いたため、これ以後は厳しく産地を選別しているという生協に加入してスーパーマーケットを利用しなくなった。
「生協のニュースレターは、いつも原発事故の話ではじまって、事故の話で終わっていた」ので危機感が増して、「今までぼうっとしていた自分が嫌になった。野菜や魚や肉もなにもかも危ないのがわかった。水も水道水を避けたほうがよいと知って、ハワイの水を届けてくれる会社と契約した」など、いかに内部被曝しないか神経を使うようになった。夫がBの選択に理解を示して「こんなときだから、しかたない。納得いくようにやるほかない」と言ってくれたのにはほっとした。
生協のニュースレターだけでは足りない気がして、ネットの情報を集めようと掲示板やツイッターを「定点観測しているうちに、自分から発言するようになった。Yahoo!知恵袋で食品の線量を公表したりリンクをいっぱい貼っている助言者Xを知り、個人的に頼るようになった」。Xから「まさか水道水をそのまま使って洗濯していないか。風呂の水はどうしている。こんなことを続けていたら、放射能の雨を浴びるのと原理的に変わらない。子供の体調に変わったところはないか」と聞かれ、幼稚園児の娘が転びやすくなったり、手に持った物を落としやすくなっているのではないか、これは低線量被曝のせいではないかと気になりはじめた。
このように心配しはじめると、娘の髪をブラッシングしてやったときの抜け毛まで気になるようになって、生協のニュースレターに書いてあった「子供たちが危ない。チェルノブイリではいろいろな症状が出ているという説明のとおり」ではないかと思った。Xから「子供の症状が被曝と関係あるかはわからない。しかし、いつまでも関東にいたら危ないのはまちがいない。とりあえずクリス・バズビー先生監修のサプリを飲みなさい」と勧められて、被曝の影響を軽減するというサプリメントを購入した。
それでも不安は解消されず、むしろ恐怖が膨らんでいくばかりだった。
女性Bの計画とパニック
「妻が、東日本で暮らすことを怖がっている。母親として娘を守り抜く責任があるとも言った。娘が大人になったとき、障害を持った赤ちゃんを生む悲しみを味合わせたくないと怯えている」とBの夫は筆者に訴えた。筆者は首都圏各地の放射線量が健康を損ねるものでないことを夫に説明し、これを彼がBに伝えたが「娘に何かあったとき、あなたは責任が取れるのか。責任を取れないくせに、いい加減なことを言わないで」と拒絶された。
助言者Xは首都圏の自治体が発表したホットスポットの線量と、有志が計測したという各地の線量をBに逐一伝え、「自治体は隠しきれないものだけを発表している。つまり隠せる高線量地帯は隠している。これを有志たちがあばいてる」と説明していた。またXは早川由紀夫が作成した放射能汚染地図(早川マップ)を示して関東にもセシウム137が「普通では考えられないくらい降った」とも解説した。
Bは「飲み水の水源地に放射能が降ったという話がもっとも恐ろしい。油断するな、変なものを食べるなと生協も言っていて、母親としての責任に押しつぶされそう」だった。彼女は夫から「神経質になりすぎている。しばらく娘と関西を旅行したらどうか」と勧められ、旅行の計画を立てはじめたが「また戻ってこなくてはならない旅行ではだめだ」と思い、どうしたら避難できるか情報を集めた。
家族全員の引っ越し、母子だけの避難、さらに短期の避難と三通りの計画を立てた。家族全員の引っ越しなら、夫に会社の関西支社への転勤願いを出してもらうのがもっとも現実的だ。母子だけの場合は住居費、生活費、夫が訪ねてくるための交通費などが必要になる。短期がもっとも簡単だが解決策とは言い難い。
Bが経過を伝えると夫は「でもやっぱり旅行だろ。一週間で短いなら、半月だっていいよ」と言った。このとき彼は妻がさまざまな可能性を検討して、どのような旅行がよいか計画を試行錯誤しているものと思っていた。
Bはさらに検討を続けた。計算してみると、母子だけの避難は二重生活になるため経済的にかなり厳しくなるのが予想された。収入を得るためBが働くと、娘の保育について計画を練り直さなくてはならない。行政からの保育支援策や、移住定住促進策が利用できないか、利用できるならどれくらい助かるか調べてみた。
どれもこれも、うまく行きそうになかった。計画を書いた紙を夫に見せて「転勤願いを出してほしい」と頼んだが無理だと言われた。夫は「旅行に行ったほうがよいとは勧めたが引っ越しなんて考えていない。娘と二人きりで避難してうまく行くはずがない」と弱りはて、Bは「国や自治体の制度と夫が、どちらも壁になっている」と感じてパニック状態になり、彼女は「こうなったら何があっても自力で避難しなくては」と思い詰めた。
女性Bと他の母親たち/自主避難をめぐる相談と心情吐露の類型
事故を起こした原発から250キロメートルも離れているのに避難するのは愚かな人々と思われがちだが、Bの夫は彼女が作った計画書は綿密に練り上げられていたと言っている。では危機感を抱えながらも冷静に避難の可能性を探ったBは特異な例だったのだろうか。
Yahoo!知恵袋に現存する「自主避難」を含む書き込みは、2011年から2017年までの期間で2,595件あった。ここから原発事故以外の相談と、意図・意味不明なものや冷やかしなどを除くと35スレッドに絞り込まれた。掲示板・発言小町から同期間の「自主避難」を含む6スレッド、ツイッターからも同21ツイートを抽出して合わせて検討すると、スレッドを立てた者やツイートした者の心情の吐露や相談は次のように類型化された。(*グラフ1)
・「子供の被曝が心配/妊婦として胎児の被曝が心配/母子避難」
相談の前提である。女性が我が子や胎児の被曝を心配していた。
・「避難先・受け入れ先の不安」/「制度・手続き・その他の行政の問題」/「金銭的心配・仕事の心配」
自主避難をするため解決しなくてはならない課題である。かなり冷静に課題を洗い出していた。
・「ホットスポット/線量」
不安や危機感の原因である。線量を正しく認識する知識に欠けていることが多く、情報が真であれ偽であれセンセーショナルに受け止められる傾向が強かった。
・「強いストレス/パニック」
不安と、課題や障害が負荷となってかかるストレスである。
・「夫(男性)が理解してくれない」/「国や東京電力に対応を望むが期待できない」
課題を解決しようとするときの障害である。課題を解決しようと試みても家族の理解を得られなかったり、国や東電に頼れないのを知って不満が吐露された。
書き込みの類型を実態とともに検討して被曝への不安から自主避難までの流れを整理すると、
1.線量や被曝症状とされる鼻血などマスコミの報道に触れる。
2.被曝への不安が生じ、母親が我が子への被害に怯える。強いストレスが発生する。
3.避難を願望する。
4.避難するうえで「避難先」「金銭・仕事」「制度」が課題として洗い出される。
5.課題を克服しようとすると、家族の無理解ほか制度などが障害となって立ちはだかる。
6.2から5の過程で、特に5の段階に至って解決の困難さに直面してストレスが高まりパニックに陥る。
7.課題と障害を解決できないまま自主避難を決行する。
となった。先々のことを考えず発作的に自主避難した人々は皆無ではないだろうが、少なくともネット上の相談者や、筆者が聞き取りをした者は、数段階の葛藤を経て課題が未解決なまま自主避難を決行していた(*模式図1)。
Bの事例が特異なのではなく、彼女は典型的な自主避難者だったのである。
女性Bを避難へ誘う助言者と支援者
Bは助言者Xが紹介していた支援団体の短期避難制度を活用して母子だけで西日本へ仮避難したのち、別の支援者Yを頼って沖縄へ避難した。Bの夫は「妻は『保養』というプログラムをつかって旅行に行くと言った。期間は、私が提案した半月だった。体や気持ちを休める『保養』ではなく、別居や移住に発展するものだなんて思うはずがない。『保養』という言葉に騙された気がした」という。
彼が指摘するように、「保養」とは短期避難またはお試し避難や、長期避難の言い換えに過ぎなかった。「保養」を支援し滞在先を提供または紹介する団体は全国に多数存在し、運営者はNPO法人や生協などさまざまだったが個人的な活動も多かった。こうした避難先と希望者をマッチングさせる組織が「ほよ~ん相談会」だった(*画像1、2)。
BはXやYや「保養」を提供してくれる人たちを信用しただけでなく、彼女の言い分をすべて肯定する「やさしい人たち」として頼りにした。だが本心では「放射能とは別に、幼稚園児の娘を連れて知らない土地で暮らす不安があった。もし娘が大きな病気をしたら、私に何かあって倒れでもしたら、どうなるだろうか」と不安がよぎることもあった。しかし、どうしても助言を求めることができなかった。
こうしたためらいから自主避難に踏み切れない人が、Yahoo!知恵袋や掲示板で「子供が被曝してもよいのか」と批判されて嫌われるのをBは見たことがあった。彼女は助言者や支援者や保養関係者に嫌われたり見放されたくなかったのだ。
Bは沖縄に到着してホテルからYに連絡を入れた。YはB母子を自然派のカフェや文化人らしき人のもとなどへ慌ただしく連れ回してホテルに戻ると、「よかったね。沖縄でのびのびしてね」と言って去っていった。Yの支援とは、Bに同情の言葉をかけて、安価で便利な宿をいくつか見繕って紹介し、沖縄にいる避難者たちの噂話をして、自分がどれだけ意識高い生活をしているか見せつけることであるかのようだった。
翌々日、Bは外出中にトラブルに巻き込まれてしまい、警察で被害者として長時間調書を取られ、署内で娘が泣き止まなかったこともあって「心が折れてしまった」。沖縄も「放射能とは別の意味で怖い場所」になり、関東にもすんなり帰れない自分はとてつもなく駄目な母親と思い知らされた。義母から電話で「子供のことは、あなただけの責任にはしない。全員で戦えばいいじゃないか」と言われて、彼女は自宅へ戻る決心をした。「被曝への恐怖はまだ消えていなかったが、救われた気がした」という。
恐怖に訴える論証に溺れた運動
先入観にもとづいた恐怖を植え付けて支持を得ようとする訴求方法が「恐怖に訴える論証」である。「恐怖に訴える論証」は[PまたはQのうちどちらかが真である。Qならば恐ろしいことになる。したがってPが真である]と迫るものだ。「恐怖に訴える論証」は広告手法のひとつとして、たとえば「練り歯磨きだけでは虫歯になるから洗口液を買おう(練り歯磨きだけなら虫歯になって恐ろしいことになる。したがって洗口液を買う選択が正しい)」といった具合に使用される。
反原発を訴える主張は、「恐怖に訴える論証」を使用する例があまりに多かった。「原発存続なら恐ろしいことになる。したがって原発廃止が正しい」として福島県がいかに荒廃したか、人々がいかに被害を受けたか虚像を描いて反原発を訴えた。
「安全性を信じたら後悔する。危ないから逃げろという説明に説得力があった。取り返しがつかないことになって後悔をしたくなかった」ため、Bが自主避難に踏み切ったのも、「恐怖に訴える論証」によって誤った選択へと誘導された結果だった。彼女が読んでいた生協のニュースレターは反原発の立場から「生協を使わないとひどいことになる。食べ物で被曝する」と訴求していた。助言者Xも誇張された原発事故の恐ろしさで恐怖を煽った。こうして子供の被曝、健康被害といった危機が、自主避難という選択肢をBに突きつけたのだった。
前回紹介した朝日新聞連載の「プロメテウスの罠」は、大量の鼻血を流す町田市の小学生の逸話だけでなく、連載そのものが恐怖に訴える論証のプラットフォームだったといえる。また僧侶と喪服を着た参列者が棺をさげてデモを行った「被災地の子供の葬列デモ」は、福島県の子供がこれから死んで行くという恐怖を可視化するパフォーマンスで原発撤廃を訴えた(*画像3、4)。
Bは帰還後に助言者Xと支援者Yについて「本気で反原発なのか、なんともいえない。助言者Xは怖い話で人を操るのが、癖になってしまっていなかったか。支援者Yは怖がっている人を選んで、おもちゃにしていなかったか」と考えるようになった。人々を操る快感に溺れていたのはXやYといった人々だけではないだろう。筆者には、反原発派の政治家や活動家、文化人や学者たちも、人々を操る快感に溺れていたように思えてならない。
「妻がおかしな話に騙されたのが未だに信じられない。彼女は原発が水素爆発した映像をテレビで見ながら、私と九段会館の天井の話をしていたくらいなのに」とBの夫はいう。冷静だったBのような人々まで簡単に操れたのだから、反原発派や反原発の名を借りた者たちは恐怖を煽るのをやめられなくなったのだろう。
これが母親たちに自主避難を選択させた原因のひとつであるのはまちがいない。
自主避難者への帰還支援とは
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