短編小説「山の神の秋子さま」

小さな頃から、他人には見えないものが見えたし、他人には聞こえないものが聞こえた。庭の木の上には大きな目玉が乗っかっていたし、家の縁の下からは夜な夜な呻き声が響き渡っていた。そんな中でも、裏の山の女神の存在は、最たるものであった。
 彼女は、アキコと名乗っていた。文字での交流をしたことはないが、恐らくは秋の子と書いて秋子なのだろう。わたしが彼女に貰ったのだと言ってきのこや山葡萄を持って帰ると、家中、お前は狐に化かされたのだと言い、果ては神社にお祓いに連れてまで行かれた。その時から、わたしは彼女のことを誰にも言わなくなった。

「秋子さま」
「……なぁに?」
「誰にも、あなたのことが見えないんだ」
「あら、あなたには見えてるじゃない」
「……俺にだけじゃないですか」
「……わたしは、あなたに会えて嬉しいわ」

彼女の笑顔を見る度に、成長したわたしの心は乱され、身体は拐(かどわ)かされた。成人してからも、彼女の姿が見えるのはわたしだけだった。
 図書室となっている蔵に入り浸っては、自分でも書を記すようになっていた。秋子の話だ。


ある、夜のことだった。空に巨大な閃光が走った。

喉が渇く、髪が焦げる臭いがする、肌が、炙られている。夜だというのに、妙に明るい。暑い、熱い、熱い、熱い熱い熱い――
 家が燃えているのだと気づくのと、どこからか何か、壊滅的に燃えたぎる何尺もの大岩が降ってきたのだと認めるのは殆ど同時であった。
 “それ”は、虹色に蠢いていた。表面はてらてらと光り輝き、そして、全体が時折ぴくぴくと痙攣している。恐る恐る覗き込むと、ガン、と顔を目掛けて飛び込んできた。視界が瞬く。思い切り大きな石つぶてが当たるかの衝撃によろめいたのも一瞬、

「ぐ、あ、ぁ………あああああッ!!!!」

胃の中がひっくり返るような吐き気とともに、視界が虹色に、染まった。

そこから先は、おかしな事だ。奇妙でしかない。ランダムに、レインボーに、パラダイムが起きている、聞いたこともない言葉、知らないはずの言葉、食べたことのない味、不可解なテクノロジー、見たことのないはずの、鮮やかなる動物たちが叫んでいる!
 あれは、そうだフラミンゴというのだ。鮮やかなピンク色をしている、フラミンゴという鳥なのだ。

「……私が、呼んだの」
「え?」

声がしたと思った方向に見えた秋子の様子は、様変わりしていた。声と目の光しか、秋子が秋子だと分かる要素が残っていない。文字通り淑やかな淑女たる、あの仕立ての良い着物を着た、長く黒く、美しい髪を持っていた秋子の姿は、見る影も無い。代わりに、毒のような眩しさの、薄紅や桃色――だなんていう慎ましいものではない。あぁ、ショッキングピンクというのだ、目に焼けつくようなこの色をショッキングピンクと称するのだと、わたしは――いや、俺はもう、知っている。

「だってあなたは、もう私のことが見えなくなりそうだったんだもの。あなただけ、私のことが見えなくなって、私だけがあなたのことが見えているだなんて、そんなのって、許せないんだもの。ねぇ、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずーっと、一緒に」
「……秋子さん、これは……これじゃ、まるで」
「ねえ、西洋の百鬼夜行なんですって! 素敵でしょう、素敵よね!? あなたと私が永遠に暮らせる、夢幻なるこの世の終わりと始まり、さぁ、世界よこんにちは! それはハロウィーンの幕開けなんだわ!」

わたしが、わたしとして最期に見たのは。視界の端でゆらゆらと踊る、手のひらほどに小さな、黄緑色の毛を持った、兎のような獣の姿だった。


「お兄ちゃん、ガレットお兄ちゃん!」
「…………アルゴ」

気がついた時、鮮やかな髪をした秋子はアルゴと名乗っていて、わたしのことをガレットと呼ぶようになった。わたしの――いや、彼女の世界では、私たちは兄妹だということになっていた。

彼女は、恋人としての、伴侶としての私を捨てた。

少なくともわたしには頸城宗介としての記憶は残っているが、アルゴに秋子の記憶があるのかは分からない。

「ねぇ見て、ほら。この間落ちてきたUFOにね、カニが乗っていたから捕まえて焼いてみたの。凄い良い匂いがしたから私、甲羅にお酒注いで飲んじゃった」
「……アルゴ」
「……お兄ちゃん?」

あなたは、いや、お前は。ずっとずっと、そのまま元気にしていて欲しい。お前の為ならば、お前の側に居続ける為ならば。俺は何だってしてやる。