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誰でも一本は傑作を書ける

新藤兼人先生は「誰でも一本は傑作を書ける。自分の周囲の世界を書くことだ」と言った、という。浅学で恥ずかしいばかりだが新藤先生の作品を観たことはない。

「祭りの準備」という映画のセリフから知ったのだ。
祭りの準備では、高知から脚本家として上京する夢をもった主人公の少年が、このセリフから身の回りにあった出来事を回想するところから始まるわけだが、あまりにもロクでもない大人たちに囲まれ、嫌すぎる出来事ばかりだったので、こりゃ傑作にはなるまいな、と思うところから始まるのである。
しかし、この映画自体、監督の黒木氏の過去にあった出来事だというのだから新藤先生のお言葉は間違ってはいないということだ。

では具体的にどういう意味なのか。
詳しく勉強したわけではないが、なんとなくわかるところである。
身の回りの出来事であれば、たとえ教養がなくても鮮明に描くことができるから、誰しもに書ける傑作たりうるのだ。

石山修武か隈研吾か、忘れてしまったが、建築家の言葉に「建築家を志すには、すべての物事を学ぶ必要がある」みたいなのがあって、建築は床や壁の材質がテクスチャーを表現するし、どういう照明がどういう雰囲気を出して、どういう配置だと目に優しいか──また建築が建つ場所の気候や地盤の質なども考えなければならないし、公共施設であればその地域に建つ必然性を確保するために地域の歴史や風土も理解する必要がある、という意味だった。

建築や映画は、特に総合芸術と言って良いような複合的な表現媒体なので、やはり多方面への教養が必要なのだろう。

これは先人が積み重ねてきた歴史のある表現方法にはすべてに共通することなのだが、やはりどの方法にも天才は居るもので ロクな教養もない凡百が参入したところで陳腐な作品しか作れないのだ。

しかし、自叙伝であれば、そのストーリー、出来事に対して最も鮮明に印象をもっているのはただ自分一人だけだし、同じ人生を歩んでいる人は居ないわけだから誰とも被らず独自性のある作品になりうる。
ただそのときに感じた心のざわつきを言葉に起こせば、同じような感情を抱いてきた者には深く突き刺さる傑作になるだろう。


私が、基本的に商業漫画が嫌いなのはこの部分に原因があると思う。
漫画雑誌に週刊連載されるような作品は、大抵流行に乗っかったテーマで描かれがちであり、どの雑誌かにもよるところだが今でいうと「ギャル」という概念を主軸に据え、ひたすらそれを愛でるような作品を散見する。

で、9割の作品は「ギャル」の解像度が低くて主役が「ギャル」というか無頓着で言葉選びが乱雑で下品な女にしかなってなかったり、属性以上のキャラクター性が無くてただ読者の性的搾取の対象としか描かれてなかったりするのである。少なくともその2作品は実在する。

これはやはり作者自身がギャルではないから、ギャルという在り方に対して理解が及んでおらず、それの良さが描ききれていなかったのだろう。

少なくとも商業雑誌に掲載されている作品は、作者の他にも編集者や編集長の判断のもと舵取りがされているはずなので、これは誰が悪いというわけではないのだが、自叙伝でない物語で傑作を描くというのはとても難しいのだろうとおもう。




一方で、先日の記事で「登場人物が作者の自己投影になりがち」みたいな言葉を書いた気がするが、それは作者の作者自身への自己分析、そして他者分析の結果として本来自分自身ではない立場の人間に人間性を持たせることができたという事実なのではないかと思う。

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