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赤とんぼが飛んだ夏

優は立ち止まって顔を上げた。一粒の汗が日焼けした頬をつたっていく。右手に下げた黒いスポーツバッグが、真夏の暑さを溜め込んでいる。

目の前には木造二階建ての一軒屋。二階の木の雨戸は閉め切ったまま。家全体が左に傾いている。

この家に優のじじとばばが二人きりで住んでいる。

縁側から、ばばがひょっこりと姿を見せた。

「あれ、早かったやんね」

 ばばのゆったりとした声が暑さに揺れながら伝わってきた。優はとりあえず笑みを浮かべた。

 玄関に回った。かまぼこ板に『北原』と書いてある。

引き戸をガラガラと開けて土間に入った。期待したほど涼しくはない。かかとを踏んで靴を脱ぎ、一段上がった板張りの床を踏んだ。

ギー

床のきしむ音が、ひび割れた漆喰の壁に吸い込まれる。

居間にやってきてスポーツバッグを下ろした。湿っぽい畳に座っていると、ばばが縁側のほうから、そろりそろりと歩いてきた。

「こげん暑かと汗のパーっち出てくる」

「うん」

「あんた一人で来たの初めてやろ。迷うことあったね?」

「いや、大丈夫だった」

「ほんにもう高校三年生。優が細かときにお母さんと初めてここに来たこつば、昨日のように覚えるよ。おじいちゃんが優をこう抱いて風呂場にいって、毎日あろくれよったよ」

「ふーん。おじいちゃんは?」

「おじいちゃんはグランドゴルフに行きよる」

「グランドゴルフか」

優はスポーツバッグから勉強道具を取り出して、ちゃぶ台の上に並べた

「勉強すっとね?」

「うん。野球やってたぶんを取り戻さないと」

「じゃ六時にはご飯炊けるよ。よかね?」

「いいよ」

「はい。分かりました」

ばばの小さな背中が炊事場の方へ消えた。優はペンを握り、物理の問題集を開いた。あと半年もすれば大学受験。実感は湧かなかった。塾には行かずに三年間野球ばかりしていた。

地区予選の二回戦、最終回五点ビハインドで二死満塁だった。バッターボックスには一番の親友が立っていた。ネクストバッターズサークルで形だけの素振りをしていた。正直その親友がアウトになってほしかった。自分で終わるのが怖かった。そう思った瞬間に親友は三振してしまった。安堵した自分に腹が立った。そして、逃げるように受験勉強を始めた。

 優はペンを置いて掛け時計を見上げた。目頭を押さえ、ふーとため息をつく。

トン――――トン――――トン

炊事場からは眠くなるほどゆったりとした、まな板の音が聞こえてくる。

優は大きな欠伸をしながら立ち上がった。縁側へと歩いて腰を下ろした。戸は開け放たれていて、生ぬるい空気が流れ込んでくる。

その空気に乗って、一匹の小柄な赤とんぼが舞い込んできた。そして、優の膝の上にふわりと着地した。

突然、蝉時雨が辺りを取り巻いた。ふと顔を上げると、紺色の軽自動車が小道をまっすぐにやってくる。

「帰ってきなはった?」

 ばばの声が炊事場から聞こえた。

「うん。帰って来た」

 軽自動車は狭い小道をうまく切り返して、バックで車庫に入った。やがてドアを閉める音がして、じじがゆさゆさと歩いてきた。百七十センチを越える頭のてっぺんに、農協のキャップを被っている。手にはグランドゴルフのクラブ。棒の先がかまぼこ型になっている。

「おう。来たか」

 優の前で立ち止まったじじは、背中を曲げて顔をグッと近づけてきた。じじの視線の先、優の膝の上には、さっきの赤とんぼがまだじっとしている。

「なに、赤とんぼか? うっかりものだなあ。まだまだ蝉のお祭りは続くというのに」

「逃げないね」

 優はふっと息を吹きかけてみた。赤とんぼは翅を広げた姿勢を崩さずに、板張りの床に音も無く落ちた。

「死んでいるじゃないか」

 じじが赤とんぼをつまみ上げ、優の隣に腰を下ろした。そして、翅を透かして空を見上げた。優も空を見渡した。太陽は車庫の屋根に隠れようとしていたが、空はまだ青かった。

 突然じじがつぶやいた。

「北原……おれはな、アカトンボでいかにゃならん」

「えっ何?」

 じじが赤とんぼから目を離し、優をまじまじと見つめてきた。優の視線はじじの持っている赤とんぼへ逃げた。

「ほれ」じじが優に赤とんぼを差し出した。

 優は両手で赤とんぼを受け取る。空気のように軽い。

「話そうか」

じじが脇に立て掛けていたグランドゴルフのクラブを手に取った。

 赤とんぼは優の手のひらで、生きているかのように風に揺られた。

「じじが初めて操縦した飛行機はアカトンボと呼ばれるもので、鮮やかな橙色の複葉機だった」

 じじがクラブを自分の両膝の間に立てた。そして、優を見てにこりと笑う。

「赤とんぼの操縦席はじじの体にはあわんかった。とても窮屈でね――」

「お食事ですよ」ばばのぎこちない標準語が聞こえてきた。

「離陸はそこまで難しくない。優でもすぐ出来るだろと思う。いいか、操縦桿を手前に引けば機首が上がる。前に倒せば機首が下がる」

 じじがクラブを操縦桿に見立てて前後に動かした。

「左に倒すと――」

じじが優の顔を覗き込んだ。

「どうなると思う?」

「左に曲がる?」

「ちがうなあ。正解は進行方向を軸にして、クルクルと回転するんだよ。えーっとこっちだから……反時計回りだな」

「ふーん」

「お食事ですよ」

「それでは曲がるためにはどうすればいいか、わかるか?」

 優は首を横に振った。

「まず、操縦桿を横に倒してすぐに元に戻す。これで飛行機は斜めになる。それで操縦桿を引けば、機首が上がって曲がるというわけだ。その間にペダルでうまーく横滑りを調節するわけです。おもしろいだろ」

ばばが二人の背後までやってきていた。

「ご飯食べようかのも」

「おお、そうか」

 じじはよいしょと言って膝に手を当てながら立ち上がり、玄関へ回った。ばばは腰の後ろで手を組んで、戻っていく。優は赤とんぼの死体を縁側に置き、手を洗って食卓に着いた。

 今日の夕食はご飯と薄味の味噌汁、小さな煮魚と、自家製の茶色いニガウリと、青いミニトマト。

 五分ほど誰も喋らなかった。優はニガウリを無理やり口に入れ、噛まずに飲み込んでいった。ミニトマトはすっぱいというより硬かった。味をごまかそうとして胡麻ドレッシングを手に取ったが、賞味期限が三年ほど過ぎていた。

 焼酎を一杯飲み干して、ほんのり顔が赤くなったじじが、アルコールの匂いを息に乗せて喋り始めた。

「じじがちょうど優ぐらいの歳ですよ。戦争の時代というわけです。だんだんと食べ物が無くなっていってね。飢えですよ。これっぽっちの砂糖菓子がご馳走だった」

 じじが親指と人差し指で小さな円を作った。

 ばばが口から魚の骨を取り出して、皿の縁になすりつけた。

「そういう時分にですね、徴用で飛行場をつくっていましたよ。それが終わってから、航空機乗員養成ですよ。軍隊に一年入ります。周りの人の大半は、じじより歳が一つ若かったです。殆ど友達はいなかったなあ。でも一人だけ同い年がいてね。小川猛といって操縦の腕前はじじとたいして変わらんかった。下手くそだったですよ」

 じじが笑いながら不毛の頭をぐるりと撫でた。優もすすっていた味噌汁を置いて笑い返した。じじが両手を広げて大声で言った。

「百人いる中でどん尻ですよ! びりっけつ!」

 ばばが口に入れる寸前のご飯を椀に戻した。

「声の太かー。三浦さん方にまで聞こえよるよ」

「よかよか。かまやせん」

「恥かくじゃん。ほんに自分のこつばーっか考えよる」

「聞こえん聞こえん。優、続きを話そう」

 ばばが口を押さえてクスクスと笑い出した。そして、優の膝をぽんと叩いた。

「アルコールの加勢しよんもん。なーにを言っても聞く耳持ちなはらん」

「そして、そしてですね。一番下手だから、じじと小川の初めての単独飛行は最後の最後ですよ。もう周りのみんなはうまく飛んでいる。恥ずかしい事は恥ずかしいが、なーにこれで一人前になれるんだ、と思って嬉しくもありましたよ。始めての単独飛行は赤い吹流しを付けるのが決まりなんです」

 ばばが優に耳打ちをする。

「迷惑ならそう言いなはれ。自分の良かごつ喋るもん」

「じじの話は嫌か?」じじが笑みを含んだ顔を突き出してきた。優は慌てて首を振った。

「優はもう食べ終わっとっじゃん。席立たれんで、じっと我慢して聞きよるもん」

じじがグフフと笑った。

「優は貴重品だからじじとばばを同時に相手せないかんね。我慢しなさい。ほんのニ、三日の辛抱だろ。何日泊まる予定だ?」

「四日間」

「そうか。楽しい日が続くな」

 じじはよっこいしょと言って立ち上がった。

「話の続きはまた今度にしよう。じじが先に風呂に入るぞ。いいか?」

優はコクリと頷いた。

 じじもばばも九時になった途端、床に就いてしまった。古いテレビが一台あるが、電波が悪い。携帯は圏外。参考書を開いた。蛍光灯の熱さで気絶した小さな虫が、パラパラと落ちてくる。参考書の上に緑色の小さな虫が落ちた。ふっと息を吹きかけたら、パッと飛び上がり、螺旋を描いて昇りはじめた。また電灯に近づいていく。見失った。

優は参考書をはらって閉じた。ちゃぶ台に乗った虫の死骸を吹き飛ばした。散らばったペンを片付けて立ち上がった。

もう今日は寝よう。

隣の座敷は冷たい空気が張り詰めていた。

 紐を引っ張って明かりをつけた。座敷は他の部屋より天井が高かった。仏壇がある。

優は座敷の中心に、湿っぽい布団を引いた。明かりを消して、横になった。月明かりが障子の和紙を青白く透かす。家のいたるところにある隙間から、涼しい空気が入り込んでくる。優は重い掛け布団を首までずり上げた。

水が流れる音が聞こえる。時々ウシガエルがグーと鳴く。頭の上にある仏壇は奥の方が暗くて見えない。

 久しぶりに夢を見た。セピア色の夢だった。

 

 操縦桿を握る手は異様なほど汗ばんで、手袋の中は水浸しになっている。それでも左側の遥か下を飛ぶアカトンボから、目を離すことができなかった。着陸のために滑走路に近づいていくその機体を操っているのは、小川猛だった。

滑走路と小川機の距離がみるみる狭まっていく。高度を下げるに連れて、アカトンボとその影は一つになっていく。

「低すぎじゃなかろうか」

 もう殆ど影は見えない。滑走路まであと百メートルはある。

 次の瞬間、小川のアカトンボが、自分のアカトンボの翼の下に隠れて見えなくなってしまった。

「あいやー」

 慌てて操縦桿を左に傾けた。機体が垂直になってしまったが、下を飛ぶアカトンボが見えた。すでに滑走路の端に達していた。

「がんばれ。あと少し」

 突然、小川のアカトンボが機首を異常に上げてフラフラと揺れた。失速しかけている。

「小川!」

 叫ぶのと同時に、小川のアカトンボは落ちるように接地した。一度跳ね上がってから、滑走路をしっかりと捉えた。

 ふーとため息を付き、操縦桿を右に倒し、手前に引いて機体を水平にした。いつの間にか五百メートルも降下していた。

「次は俺の番」

 ふと横を見ると、初の単独飛行のしるしである小さな赤い吹流しが、気持ちよさそうに風に吹かれている。

 いったん飛行場から離れて、ある程度飛んだ。そして、来た道を引き返した。滑走路の中心線と進行方向を合わせなければならない。殆ど無風。

すんなりと合わせることができた。手袋の中の汗が乾いて冷たい。

滑走路の端が近づいてくる。もう手を離していてもアカトンボが勝手に降りてくれそうだ。滑走路の脇に止まったアカトンボから小川が降りているのを眺める余裕すらある。

滑走路の端を通過した瞬間、横顔に強い風が当たった。滑走路の中心線が右へ右へとずれていく。

 とっさに右のペダルを踏み込んだ。はやくアカトンボを降ろそうと操縦桿を強く押し倒した。急激に滑走路が迫ってきた。慌てて操縦桿を引いたが、遅かった。タイヤが地面を強く叩いた。衝撃が体を突き上げた。

 数秒間気を失ったようだ。アカトンボは滑走路の左端を滑走していた。
頭を振ってボヤける視界を振り払う。

 エンジンを止めて、アカトンボから降りた。足が震えていることに気づいた。

「北原!」小川が飛び跳ねながら駆け寄ってきた。「急にガクッと降りたな。眠っとったんか?」

「急に風が吹いたんだ」

「そうかそうか。お互い成功とはいかんが、まあいいじゃろ。鬼丸も俺達に大成功を求めてはいまい」

 小川が頭の上で両手の人差し指を鬼の角のように立てた。口をへの字に曲げて怒った表情を作る。こらえきれずにへの字に曲げられた口が吹き出した。

「誰が鬼丸じゃ。ちびすけ」

丸山教官が小川の背後で仁王立ちになっていた。小川の笑顔が一瞬で吹き飛び、キヲツケの姿勢になった。

「小川! いつまで尻を向けとるんだ!」

「はい」小川がクルリと向き直る。

「これでようやく全員が単独飛行を終えた。これからが本番だ。お前達! あんな拙い着陸を続けるなら帰ってもらうぞ。いいな」

 丸山教官が肩を怒らせながら去っていった。

小川が小声で言った。

「田舎の国民学校の教室に、俺の写真が貼られて拝まれとるんじゃ。天皇陛下の横でな。今さらノコノコと帰れるか」

 フンと鼻を鳴らした後、小川が背伸びをして睨みつけてきた。

「北原! お前、鬼丸が来とるのに何で教えてくれんのじゃ」

「目で合図したじゃないか」

「嘘つけ! にやにやしながら突っ立っとっただけじゃ。あっまてこら逃げるな!」

「やーい、ちびすけ、ちびすけ」

「許さんぞ北原!」

 優は身震いをして目を覚ました。布団を飛び出して畳の上で寝ていた。鼻水が出ている。

 まだ七時なのにじじとばばは朝食を済ませていた。

ばばは食器を洗っている。優が食卓に着いて、ご飯と味噌汁だけの朝食を食べ始めたとき、ばばが手を休めて振り返った。

「わしわしわしわしわしわし鳴きよる」

「え?」

「セミのわしわしわしわしっち鳴きよる」

「あっセミね」

 ばばがまた食器を洗い始めた。優はご飯に味噌汁をかけてかき込んだ。そして、鼻汁をすすった。

「ごちそうさま」

「あっお縁の雨戸ば開けてくれんね」

「はい」

 縁側に来て、木でできた雨戸を開けた。それを待っていたかのように、セミ達が一斉に騒ぎ出した。ふと足元を見ると、赤とんぼの死体が仰向けに転がっていた。優はその死体を足で端に寄せた。そして鼻汁をすすった。

 昼食になった。じじは殆ど話さなかった。じじが席を立ってから、ばばが口を隠して小声で言った。

「酒飲まんなら黙って食べなはるたい」

 優は鼻汁をすすりながら頷いた。

「あんた風邪ひいたね?」

「そうみたい」

 優が食事を終えて、居間で寝転んでいると、ばばが湯飲みを片手に現れた。

「しょうがとう。これのんも?」

「うーん」

「置いとくばんも。どろんどろん片栗粉のいっとる」

 ばばは生姜湯をテーブルに置いて、いなくなった。

 ちびちびと生姜湯を飲んだ後、湯飲みを洗って食器棚に戻した。じじとばばは昼寝をしているようだ。優は居間で横になった。昨日は一晩中夢だったから、まったく寝た気がしない。

 ばばの夕食ですよという声で目が覚めた。毛布がかけられているのに気がついた。

 食卓に着くと、もうすでにじじは顔を赤らめていた。

「優は良く寝たなー。えー?」

「風邪ひいとったげなたい」

「まあよく食べて良く寝ることです」

 一時黙っていたじじがまた口を開いた。

「昨日の続きを話そうか。えーっと初飛行を終えて、それから台湾に行きました。今度は戦闘機に乗りますよ。赤とんぼはただの練習機で、機関銃は無いし、スピードも出なかった。台湾では九七式戦闘機に乗りました。全金属性です。上昇下降の練習を四ヶ月やりました。なぜ上昇下降ばかり練習するか分かるか?」

 優はじじが問いかけてきたのに気づき、慌てて首を振った。

「分からんか。特攻訓練ですよ。特攻の時は一度高度を上げて、降下しながら高速で突っ込まなければ、途中で打ち落とされてしまうんですよ。台湾では他にも射撃訓練をしました。五メートルはある赤い吹流しを、教官が引っ張って飛ぶんです。その吹流しを真横から飛んでいって、バババと撃つわけです。ここで面白い話があるんです。聞きたいか」

 優が頷くと、じじがにんまりと笑った。

「その射撃訓練で、じじの番がきました。その吹流しを目掛けて飛んでいたんです。そして、撃とうかな、まだかな、いまだ。バババと撃ったわけです。すると、吹流しがパッと無くなって、あれれと思って、レバーをツーっと絞ったら、赤い吹流しが周りをグルグルと回って、後ろの方へ飛んでいったんです。プロペラで、吹流しを引いているロープを切ってしまったわけです。これは怒られるなと思って着陸したら、よく生きて帰って来たなと褒められましたよ。もし、レバーを絞らなかったら、ロープがプロペラに巻きついて、墜落していたということです。それで、じじの後にやった人たちで、他にも吹流しを切ってしまった人が何人かいたんですよ。その人達は褒められるどころか、怒鳴り散らされたんです。物資不足の日本ですよ。吹流しがもう無くなって、訓練ができなくなってしまった。面白いだろ。ははは、同じ事をしてじじは褒められて、ほかの人は怒られたんですよ」

 話がひと段落したのを見計らって、優はごちそうさまと言って立ち上がった。

 参考書を読みながら、ちらついた画面で野球中継を見ていると、じじがやってきた。青いストライプの入ったパジャマを着ている。

「これ見とるか?」じじがテレビを指差す。

優はさっと参考書に目を戻した。

「変えていいよ」

「おお、そうか」

じじが変えたチャンネルでは時代劇のドラマが始まろうとしていた。

優は問題を解きながらチラチラとテレビを見た。侍が斬り合っていた。

時代劇が終わって、少しニュースを見たじじはおもむろに立ち上がって、「お休み」と言っていなくなった。

じじとばばは眠ってしまった。まだ九時。優はスポーツバッグから、カップラーメンを取り出した。

 じっくり味わいながら、スープまで飲み干した。

何時間集中しただろうか。目頭を抑えながら天井を仰いだ。
蛍光灯で焦げた虫たちがパラパラと落ちてくる。寝ることにした。

 また夢を見た。

 日に焼けた石が水泳で冷えた体を温めてくれる。隣に座っている短パン一丁の小川が口を尖らせた。

「なんで北原だけ褒められるんじゃ」

 小川が小石を拾い、川に向かって投げ込んだ。ドポンと音をたてて水しぶきが上がった。

「北原はプロペラで切った。おれは機関銃でロープを撃ち切ったんじゃ。俺が褒められるべきじゃろうが」

「最後の吹流しをダメにしたんだ。それがいかん」

「そんなの不公平じゃ。あー。はよ米軍の戦艦を沈めてやりてえ。そうせんと、このむしゃくしゃはおさまらんわ。北原見てろ。あの川の真ん中にある岩が米軍の船じゃ。俺がこうやって」

小川が拳ほどの大きさがある石を拾い上げた。

「沈めてやる!」

 石は大きな孤を描き、岩の手前にドボンと落ちた。

「もう一度じゃ」

 次の石は右にそれた。

「くそっなんで当たらんのじゃー」

 小川は頭を抱えて叫んでいる。それを横目に、足元にあった平たい石を取った。

「反跳爆弾攻撃だ」

 回転をかけて、水面すれすれで放った石は、ニ、三度大きく跳ねて、岩の真ん中にコツンと当たった。

「北原ずるいぞ! 俺たちは特攻するんじゃ。ちゃんとこういう風に上から投げろや」

 小川の投げた石が、岩の左端に当たって、砕けた。

「当たったー」

 小川が万歳で駆け回った。

「いまのであの船は撃沈じゃい」

「お前も死んだぞ」

 小川が両手を下ろして、振り返った。笑っていない。

「なんじゃ北原。俺をからかっとんのか」

「怖くないのか?」

「何がじゃ。死ぬのがか? バカか笑わせんな。俺が行くときは一番でっかい船を沈めてやる。死ぬのなんか屁とも思わん。お前は怖いんか。死にたくないんか?」

「そんなこと言ってない」

「俺たちは三食腹いっぱい喰えとるんじゃ。家族や、俺を拝んどる生徒達の生活と未来を守るんじゃ。そのために飛行機を一機まるごとくれるっていう話じゃろ。一生かけて金貯めても買えんぞ。俺達はなんて幸せなんじゃろか」

「でも、もしかしたら途中で撃ち落とさ――」

「だからいま訓練しとるんじゃ! 北原の臆病者め! もう俺は知らん。気分が悪い。帰る」

 小川は着物を木の枝から奪い取って、一度も振り返らずに行ってしまった。

 足元の石を手に取って、岩を目掛けて投げた。石はゆっくりと回転しながら、岩を通り越して水に落ちた。

 帰ろうとして、木の枝にかけている着物を取った。足元に紙切れが落ちていた。黄色く変色して、クシャクシャになっている。小川の着物のポケットから落ちたのだろうか。拾い上げて開いてみる。何度も折りたたまれていて、線が碁盤の目のように交錯していた。その紙には下手な字がどたどたと配置されていた。

『兄ちゃんへ

 僕は毎日、学校へ、走って通います。母ちゃんも、サチも元気です。この前の、運動会の徒競走で、一等を、取りました。僕も兄ちゃんみたいに、飛行機に乗って、兄ちゃんと一緒に、戦えるようになりたいです。教室には、兄ちゃんの写真が天皇陛下の、横に飾られています。みんなで敬礼します。僕は兄ちゃんの弟でとてもうれしいです。がんばってください。僕も毎日走って学校に通います。それではさようなら』

 新たな折り目を作らないように、慎重に折りたたんで、胸ポケットに入れた。

 目が覚めた。雨が地面を叩く音が聞こえる。遠くのほうで雷が落ちた。枕元の携帯を開いて時間を見る。まだ六時半。炊事場では食器のぶつかる音が聞こえる。

 優は起き上がり、トイレを済ませて、じじとばばに顔を見せた。

「今日は早かったやんね。雷さんに驚いて目が覚めたね」

「別に」

「ほら。また雷さんのパチパチパチっち鳴りよる」ばばがうれしそうに耳に手を当てた。

「雷さんが早起きさせてくれたんですよ。なんでも感謝しないとね」

 じじがニコリと笑った。

 朝食を済ませ、居間のテーブルで勉強を始めた。

 一時間ほどたった。雨は勢いを増して降り続いている。ばばがやってきた。

「雨やまんねえ」

「そうだね」

「優が初めてここに来た時でん、これぐらい降っとった。まだ産まれて四十日やったろと思う。お母さんと二人で来たとよ。二人ともこげん痩せこけよった。優が一時間もしたらギャーっち泣いて、その度にお母さんはお乳を飲ませて、眠られんかったっち。優も長いこと眠らんけん、体重の全然増えとらんやった」

 ばばが座布団を持ってきて、居間の隅に寝転んだ。

「はー疲れた。少しばかり横になろう。優は疲れんね?勉強ばかりやって」

「うん。大丈夫」

 口を開けて目を瞑っていたばばが、思い出したかのように話し出した。

「それでお母さんにこう言うた。泣き疲れるまで泣かせなさい。ちょっと泣いたらすぐお乳をあげるけんが、二人とも休まれんもん。それでお母さんは我慢して、優が泣き疲れるまでなんもせんかった。泣き声が小さくなってから、腹いっぱいお乳を飲ませて、優もお母さんもぐっすり眠んなはった。それからおじいちゃんが、毎日優を風呂に入れて、毎日体重を計りよった。それで、優もお母さんも体重の増えて、こげん肥えてから帰っていったよ」ばばが両手で顔の輪郭を表した。

「ふーん」

「昔はね、どの家族も、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に住みよったとよ。やけん子育てはお母さんに習えたばってんねー。お母さんっちゃあ、おばあちゃんの事。お母さんのお母さんじゃろ」

「うん」

「雨やまんねー。洗濯もんば干そち思いよるとに」

 ばばがゆっくりと欠伸をした。

「そろそろご飯の準備ばせやん。よいしょしょ」

 ばばが四つん這いになってから立ち上がり、炊事場へ歩いていった。見えなくなって、また一つ、よいしょしょと聞こえた。

 昼食にまたニガウリが出てきた。

「おばあちゃん。ニガウリ食べたくないんだけど」

「あんた、ニガウリ食べれんとね。はよう言うてよ。三人おるけん、いっぱい食べれるように、こがしこ作ってしもたよ」

「優はニガウリ食べないのか」じじの口から米粒が飛んだ。

「だって苦いじゃん」

 じじがグフフと笑った。

「まあ無理に喰わんでもいい。しかしね、良薬口に苦しという言葉がありますよ。肉ばっかり食べていたらいかんと言う事です。時には緑色の野菜を食べなくては、病気になってしまう」

 ばばがうんうんと頷いた。

「お母さんはちゃんと野菜ばつこて料理するね?」

「うーん。もやしが多い」

 ばばが手を叩いて笑い出した。もやしもやしと繰り返している。

「緑色の野菜を食べなきゃいかんですよ。まあどうしても食べたくないなら仕方ないが」

 優が味噌汁を飲み干した。ニガウリだけ手をつけずに残っている。

「ただし、早いうちにあれですよ。成人病になってしまいますよ」

「ニガウリだけだよ。食べないのは。ピーマンだってほうれん草だって食べるよ」

「そうか。それならいい」

 じじがグフフと笑って、席を立った。

 ばばはまだ笑っている。

「あーおかしか」

 優は食器を洗って、居間に戻った。畳の上に寝転んでいると、ばばの声が聞こえてきた。

「雨やんだ。雨やんだ。洗濯もん干してくれんね」

 洗濯物はとても少なかった。それでも半分は優の服やズボンやパンツ。じじとばばはそれぞれシャツとパンツだけだった。

 全て一本の物干し竿に掛けた。風で落ちないように、洗濯バサミで固定した。

縁側には、まだ赤とんぼの死体が転がっていた。邪魔だから外に捨てようとして、透きとおる翅を持ってつまみ上げた。すると、プツリと翅がとれて、死体は床板の上に落ちた。ばばの声が聞こえてきた。

「優、畑の茄子ば二つ取ってきてくれんね」

「はーい」

取れた翅を死体の上に置いた。

 家の前の小道に沿った、小さな畑に茄子やトマトが植えてある。

雑草が元気よく育っている。その中に紫色の細い茄子がなっていた。優は両手で茄子を掴み、グッと引っ張った。すると、くびれた部分で茄子が千切れてしまった。

「あーあ」

 優は後ろを見て、誰もいないのを確認した。そして、千切れた茄子を林の方へ力いっぱい投げた。今度はへたの上から切り離そうと、手を伸ばした。チクリと指にトゲが刺さった。

「痛っ」

 茄子にトゲがあるなんて知らなかった。

 たっぷり時間をかけて、二つの茄子を上手に取った。

 玄関を開けると、ばばが立っていた。

「茄子取ってきてくれんね」

 ばばがハサミを渡してきた。

「取ったよ」

 優は茄子をばばに差し出した。

「おろろ。手でちぎったね? 怪我せんやった?」

「うん。しなかった」

「どうも」

 ばばは茄子を受け取って、炊事場に行った。

 

 夕飯は優が取った茄子の味噌和えが出てきた。じじが口を開けながら茄子をクチャクチャと噛んでいる。まだ焼酎は殆ど飲んでいない。

「この茄子おいしかー。味付けのようできた」

 ばばが次々に茄子を口に運ぶ。

 優が茄子とご飯を同時に食べ終わった。

「おかわり?」ばばがガタンと立ち上がった。

「えっい……うん。おかわり」

 ばばが優の茶碗を取って、ご飯をよそう。その頃には、じじの頬は赤みを帯びていた。

「昭和十九年の十月ですよ。日本は負ける寸前です。その時、本土から六百機が、一週間かかって台湾に集結するはずだったですよ。それが悲しいかな、バシー海峡を越えたのはたった三機です。敵に撃ち落とされるよりも、故障の方が多かったと聞きます。その頃になると、日本の飛行機の生産能力はもう殆ど無いんです。質も悪い。飛行機の翼は横から見ると滑らかでしょ。しかし、それがカクカクと曲がっている飛行機もあった」

 じじがおもむろに後ろを向き、咳を二回した。

「そしてですね。じじはその人達と入れ違いに、本土に帰る訳です。特攻するためですよ。十一月の十四日ですね。九州に帰ることになりました。その頃は毎日雨が降っていました。本土から操縦士が双発高等練習機で台湾までやってきました。その人は地図無しで九州まで帰れるらしいです。敵に見つからないように、水面を這うようにして飛んでいきました。そして、無事に中飛行場、今の嘉手納飛行場に降りたわけです。それから、奄美大島、種子島に沿って飛んで、錦江湾の中に入って、今の鹿屋の特攻基地に到着しました。そこで出撃を待って、毎日訓練をするんです。ここに来てからが、生と死について悩まされるんです。明日出撃しろといわれて死ぬかもしれない日が延々と続くわけですよ」

 じじが今日は二杯目の焼酎をコップに注いだ。

「そこでの訓練はですね、地上に縦五メーター、横五メーターの板が置いてあるんです。それを目掛けて、千五百メートルの高さから、急降下するんです。ギリギリでグッと操縦桿を引いて上昇するんです。それを一日四回やります。その上昇に転じるときは物凄い重力がかかるわけです。どんなに力を入れても、首が垂れ下がってしまうし、血が下半身にいってしまって、一瞬目が見えなくなりますよ。その時は下半身を締め付けるように力をいれて、視界が戻るまで耐えるんです。何度やっても冷や汗がでますよ」

 じじが二杯目を飲み干した。

「今日は話の長かねー」

「そうか。それはすみませんでした」

 じじが笑いながら頭を下げた。

「優はいつ帰るのか?」

「あさって」

「こうやって夕食を食べるのも後一回か。さびしいな。生きるという事は思い出を作る事なんです。苦い思い出だってありますよ。でもそれはニガウリみたいにね、年をとったらおいしく感じるわけです。だからと言って、全部が全部そうではない。いつまでも苦い思い出だってあるわけです。思い出したくもない思い出。でもそれから逃げてしまうと、自殺やらなんやらしてしまいますね。いろんな思い出を持つ事。それが生きるという事ですよ。じじはそう思う。ここ数日優が来て、一緒にご飯を食べて、楽しかった。盆と正月が一度に来たという感じです。楽しい思い出ですよ。もうじじはいつ死んでも満足です」

「明日死ぬみたいな事言いなはんな」

「そうだよ」

「今日は二杯も飲んだけんが、いつにも増してペラペラ喋るもん」

 じじはニコニコと笑いながら、食卓を後にした。

 優は寝る前に、便所に行こうと思った。途中、縁側を通った。一枚の翅がちぎれて、頭の上に被せられている赤とんぼの死体があった。外に捨てようとしたときに、ばばに茄子取りを頼まれたのを思い出した。わざわざ雨戸を開けるのも面倒なので、そのままにしておくことにした。

用を足して、布団に横たわった。

今夜も夢を見た。

二段ベッドの上に寝ていた。下では小川が寝ている。結局あれから三ヶ月、手紙を渡すどころか、ろくに口すら利いていない。その間にも特攻隊が幾度も編成されて、南の海に散っていった。今この宿舎に寝泊りする特攻要員はたった十数人になった。この精神的重圧に耐えられなくなり、体を壊して田舎に帰った者も数人いる。不名誉だ腑甲斐無いと言って涙を流しながら帰っていった。

自分を罵って、涙を見せるだけで、死を免れる事ができる。ときどきふと、彼らに羨望の念を抱く。自分がそんな想いを持ったと気づいたとき、とっさに心の中で否定する。そんな葛藤を続けてきた。早く楽にしてほしいと思うときもある。しかし、もしこんな生活が永遠に続いたとしても、生きていたいと思うときもある。下で寝ている小川はこんな葛藤など無縁だろう。天皇陛下の横で敬礼を受けている男だ。完全に追い詰められている。生きようなどと、これっぽっちも思わないだろう。

毎晩膨らむ疑問が、今夜も腹を割かんばかりに膨れ上がった。

「本当にできるだろうか」

 出撃したとして、本当に自ら敵艦に体当たりをできるだろうか。尻尾を巻いて逃げ帰ってしまうのではないだろうか。

「いやできる」

 毎晩、真夜中に目覚めて、この疑問を沈めないと、朝まで眠る事ができない。

「できる」

 心を無にして、飛行機を作り上げる一つの部品になればいい。

 突然、下のベッドが揺れた。顔を半分だけ出して下を覗いてみると、小川が辺りを窺いながらベッドから出てきた。右手に火を入れていない提灯を持っている。そろりそろりと歩いて、部屋を出ていった。

 こんな夜中にどこに行くのだろう。跡をつけてみる事にした。上着を引っ掛けて、床にそっと下りた。

 宿舎を出た小川は提灯もつけずに、夜道をずんずんと歩いていく。殆ど小走りだった。気付かれないように、見失わないように慎重に追いかけた。

 細い三日月が、小川の小さな背中をかすかに照らす。その背中ばかりを見ていて、足元がおろそかになっていた。小さな小枝を踏んでしまった。乾いた音が夜の空気を緊張させた。しまったと思い、草むらに身を隠した。居場所がばれてしまいそうなほど心臓が脈打っている。

 小川が近づいて来る気配は無い。気付かれなかったようだ。ゆっくりと立ち上がって、目を凝らしたが、小川の姿は無かった。

 あいつの事だ。草むらに隠れて待ち伏せしているかもしれない。ここはおとなしく帰った方が良さそうだ。

 引き返そうとしたその時、向こうの方で小さな明かりがポッと点いた。小川がマッチを擦ったようだ。提灯に明かりが入ったらしく、安定した明かりがともった。そして、地面を犬のように這う小川の姿が浮かび上がった。

 気が狂ったのか?

 草むらに隠れて小川の動きをじりじりと見つめた。どうやら何かを探しているようだ。そう思ってはっとした。

「手紙だ」

 あいつは三ヶ月たった今でも、弟の手紙を探しているんだ。居ても立っても居られなくなった。

「小川!」

 思わず大声で叫んでしまった。小川が驚いてひっくり返った。地面に落ちた提灯の明かりが消えた。

「誰だ……北原……か?」

「ああそうだ。すまん。跡をつけてしまった」

「俺はただ……探し物をしてたんじゃ」

「それなんだ。三ヶ月前、一緒に水泳しただろ」

「ああその時に無くしたんじゃ」

「本当に悪い事をした。早く渡すべきだった」

「北原、お前、もしかして、持っとるのか?」

 小川がドタドタと駆け寄ってきた。胸ポケットから手紙を出すと、瞬時に取られた。

「あー良かった」

 小川の声が少し震えていた。手紙に頬摺りをしている。

「小川、まさか三ヶ月間毎日こうして探してたのか?」

「無くしてから一週間は探したんじゃ。いくら探しても無いんで諦めとった。でも、今日はどうしても見つけたかったんじゃ」

「本当にすまん。俺の変な意地で渡せなかった」

「いいんじゃ。今俺の手元に戻ってきたから。今日必要だったんじゃ。この手紙はすごいぞ。読んだか?」

「……読んでしまった」

「気にするな。今から読むんじゃけん。この手紙はな、一回読むだけで迷いが吹っ飛ぶんじゃ。台湾にいた時から、時々夜怖くなる事があってな、その時にこれを読めば、やったるぞっていう気持ちになるんじゃ。まてまて。今から読んでやろう。聞いとれよ」

「ああ」

「兄ちゃんへ。僕は毎日学校へ走って通います。三キロもあるんじゃぞ」

小川の笑顔が弱々しい月明かりでも見えた。

「母ちゃんもサチも元気です。この前の運動会の徒競走で、一等を取りました。さすが俺の弟じゃ。僕も兄ちゃんみたいに、飛行機に乗って……兄ちゃんと……一緒に……」

小川がグズグズと鼻をすすりだした。

「たた……か……える……ように……」

 小川がうずくまった。クーという声が聞こえる。

「どうした。小川大丈夫か」

 屈んで小川の顔を見た。涙と鼻水でグショグショになっていた。

「おかしいな……なんでこんなに……涙が……でるんじゃ」

 小川が袖で何度も鼻をこする。

 またクーと言い始めた。鼻をすする音も聞こえる。

 どうしよう。背中をさすってやろうか。

「北原……読んでくれんか……最後まで……読んで……くれんか」

「いやだ。やめよう。お前泣いてるじゃないか」

「読まんといかんのじゃ! 今読まんといかんのじゃ! 北原読め! 三ヶ月間……隠し持っとった罰じゃ。読め!」

 小川が手紙を押し付けてくる。

「読め! 読むんじゃ!」

 鼻を赤くした小川が、鬼気迫る表情で迫ってくる。

「分かったよ。涙止まらんでも知らんぞ」

 小川の顔から力が抜けた。笑っているのか泣いているのか分からない。

「ありがとう」

「続きからでいいな」

「ああ」小川が鼻をすすった。

「教室には兄ちゃんの写真が、天皇陛下の横に飾られています。みんなで敬礼します。僕は兄ちゃんの弟でとてもうれしいです。がんばってください。僕も毎日走って学校に通います。それではさようなら」

 それから三十分、小川は声を押し殺しながら泣き続けた。

 静かになったかと思うと、口を開けて、三日月を見上げていた。

「そろそろ帰らないか」

 小川は何も言わない。完全に放心状態だった。

 おぶって帰ろうかと思い、小川の目の前にしゃがんだ。

「ほれ、帰るぞ。動けんなら負ぶってやる」

 それでも小川は反応しなかった。

「どうしたんだ? お前らしくない」

「北原……おれはな、アカトンボでいかにゃならん」

 ガツンと殴られたかと思った。

「なんだって? いくって……特攻か?」

「ああ」

「おかしいだろ! 何かの間違いだ」

「確かに言われた。今日の朝。誰にも言うなよ」

 喉が詰まって言葉が出なかった。羽布張りの複葉機に特攻ができるわけが無い。P公やグラマンに一撃で撃ち落とされる。運良く敵艦に近づけたとしても、速力の無いアカトンボでは、高角砲で確実に落とされるだろう。全て奪ってしまうのか。家族との暮らしを捨てて、故郷を捨てて、夢を捨てて、生きているたった一つの目標は敵艦を一隻沈める事だったのに、その目標まで奪ってしまうのか。

「小川……逃げろ。無駄死にするな」

 小川の口調は淡々としていた。

「馬鹿いうな。逃げたってどうせすぐ捕まるよ。あと二時間もすれば、迎えの車が来る。万世飛行場に行って、そこから行くんじゃ」

 小川が立ち上がった。もう泣いていない。完全な無表情だった。

「もうここでお別れじゃ。その方がええ。俺は嬉しい。見送りは誰もおらんはずだったんじゃが、一番の親友が偶然にも立ち会ってくれた。全部吐き出して迷いも無くなった」

 小川が右手を出してきた。

「握手」

 涙が溢れ出た。震える手を小川がぐっと握ってくれた。温かかった。

あと一日もすれば、この手は動かなくなってしまうのか。

「手え離せよ」

「あっすまん」

「そうだ。この手紙持っててくれないか。うっかり読んでしまったら、前が見えなくなるじゃろ」

 手紙を受け取った。

「それじゃあ」

 小川は振り返って、歩き出した。

 どうする事もできない。どうしようもない。ただ立っているだけで精一杯だった。

 小川の姿が消えた。口を開けて、三日月を仰いだ。これが戦争というものか。

 足から力が抜けた。地面に力なく座り込んでしまった。左手が湿った土に当たった。小川の涙だった。

 優は目が覚めた。目の周りが突っ張ったような感覚を覚えた。起きる気になれなかった。

 一時間ほど目を開けたまま横になっていた。

「もう十時よー」

 ばばがやってきた。

「気分悪いね?」

「大丈夫。もう起きる」

「朝ごはん食べるやろ。食べん?」

「うーん……じゃあ食べる」

 温かい味噌汁をすすっていると、じじがやってきた。

「今日も勉強するか?」

「するよ」

「じじとばばは温泉行くけど。優も来るか?」

「えー行かない」

「温泉嫌か?」

「うん。あんまり好きじゃない」

「今日は風呂沸かさんぞ。いいな」

「うん」

 勉強もせずに縁側でぼーっと空を見ていた。雲がゆっくりと動いていた。

 あっという間に昼食になった。

「おじいちゃん」

「なんだい」

「おじいちゃんはどうして特攻しなかったの」

 言ってすぐ、しまったと思った。もっと言葉を選ぶべきだった。しかし、じじは質問されたのが嬉しいのか、微笑んでいた。

「終戦のときは、軽い飛行機じゃダメだという事で、四式戦で練習してたんだよ。運が良かったんだ。鹿児島からそのまま特攻しないで、三重に行った。それでも特攻のための練習をしてたんだが、終戦になった。じじは自分を卑怯とずっと思っていた。能力が無かったと逃げてもいた。当時は終戦になっても、大きな罪悪感があった。生きている事に対しての嬉しさという矛盾。今はしかし、戦争の苦しみとか悲しみを、あなた達に伝えないといかん。そのために生き延びたとも思うようになった。平和であってほしいと思うし、あなたたちの世代に本当の平和を期待しているのが、じじたちの世代なんです」

「アカトンボで特攻した人もいるんでしょ」

「じじはそんな事まで喋ったか? 少し酔ってたから憶えてないな。そうだよ。じじの一番の親友だった」

 それ以上じじは何も喋らなかった。

 三時を過ぎた頃、じじとばばが居間にやってきた。

「いまからお風呂に行ってくったい。風呂には半時間ほどしか入らんけん、一時間もしたら帰ってくる」

「分かった」

「はい。お留守番頼んますよ」

 じじとばばが横に並んで、車へと歩いていく。二人の背中がとても悲しそうだった。

 自分も行くべきだった。でも、もう遅い。

 紺色の軽自動車が砂埃を上げながら、小道をまっすぐに行ってしまった。

 また今度来たときに、一緒に行けばいいだろう。そう言い聞かせて、参考書に向かった。

 自分がここに来た理由。それは静かな勉強部屋がほしかったという事。自分の部屋に居ると、ついゲームやテレビに手が伸びてしまう。勉強をするように自分を追い詰めたかった。他人が見ていれば、二時間でも三時間でも、黙って集中する事ができる。結局じじとばばは他人だったわけだ。

 ペンを置いて、寝転がった。

 勉強なんて楽しくない。でもしなくてはいけない。あと半年もすれば大学受験。将来何がしたいのか分からない。ひたすら野球をして、ゲームして、少し勉強して生きてきた。趣味は? と聞かれたら、野球と答えるしかない。特技も野球だ。これからどうするのだろうか。時期が来たら、偏差値で大学を決める。大学では社会に出るために酒を覚えるんだろう。親父のビールを何度か舐めた事がある。ニガウリと同じでまずかった。よくこんなの好んで飲めるなと思った。

 縁側にやってきた。寝転ぶと、板張りの床が冷たくて気持ちよかった。

 大学を卒業して、専攻に応じて適当な会社に就職して、仕事に必要な事をまた一から勉強しなおすのか。飲み会にもちゃんと出て、孤立しないようにして。何かもうそこまで来たら人生終わりじゃないか。下り道一本だ。

 入道雲がゆっくりと移動する。後ろに隠れていた太陽が顔を出した。手を掲げて目の位置に影を作り、起き上がって胡坐をかいた。

 目の前に赤とんぼの死体が転がっていた。

 本当に思い出を作るためだけに生きているのだろうか。死んでしまったらどんなに良い思い出だって、消えてしまうのに。それとも魂になって口から抜け出すのかな。空気を漂いながら思い出を何度も繰り返して再生するのか。それならいっそのこと無になった方がいい。

 三枚羽の赤とんぼが風に揺られた。

 この死体も生きて飛び回っていた時の思い出を味わっているのだろうか。

 優はまた寝転んだ。セミが騒ぎ出した。まぶたを閉じても、真っ赤に見える。体の表面が太陽にチリチリと焦がされている。

 ずっとこうしていたい。

 いつの間にか眠っていた。太陽が傾き、光が弱まっている。

 起き上がって居間にやってきた。掛け時計を見た。

「五時五十分」

 じじとばばが温泉に行ってから、三時間近くたっている。もう帰っているのだろうか。

 炊事場にいったが、暗いまま。じじとばばの寝室も空だった。どうやらまだ帰ってきていないようだ。

 優は縁側に戻ってきて、座った。

 一時間で帰ってくるとばばは言った。もう三時間はたっている。

 事故

 青い空を見上げて、不吉な考えを振り払った。

 じじとばばは他人だと思っていた。盆と正月に数日しか会わない人達。なぜじじとばばはあんなに表情豊かに自分に接してくれるのか。演技でもいいからもっと笑って、楽しそうに過ごしたほうが良かった。じじとばばが死んでしまったら――

 少し目が潤んできた。口を開けて、空を見上げるしかなかった。

 他人と思っていた。何でこんなに力が抜けてしまうのだろう。

 死んでほしくない。強くそう思った。

 どうかしている。親父もお母さんも。ゆっくりとしか歩けないじじとばばを、こんな山奥に放っておくなんて。

 人生の終わりに、さびしい生活をいつまでも続けて、いつ死んでしまうか分からない。でも確実に死ぬ。そんなのは嫌だ。

 まるで特攻隊みたいじゃないか。

 孫が数日泊まるだけで、盆と正月が一度に来たと言った。こんな無愛想な孫が来ただけで。

じじとばばがどんなに寂しいか想像もつかない。このまま死なないでほしい。

優の目に赤とんぼの死体が映った。同時に夢に出てきた小川の笑顔が浮かんできた。

赤とんぼを大事に拾い上げた。裸足のまま外に飛び出した。

赤とんぼの死体はチクチクした。畑までやってきた。

セミが激しく騒ぎ出した。

畑の隅までやってきた。雑草が生え、干からびて硬くなった土。剣山の上を歩いているかのようだ。

その場にしゃがんだ。

赤とんぼを優しく地面に置いた。

目の前の雑草を抜く。そして、近くに転がっていた石で、乾いた土を掘り始めた。

十センチほど掘って、石を離した。汗が穴の中にぽたぽたと落ちて吸い込まれていく。

その穴の中に赤とんぼをそっと置いた。

そして、土を被せていった。

優は頭を垂れた。

じじとばばを死なせないでください。

じじとばばを死なせないでください。

じじとばばをまだ死なせないでください。

弱々しいエンジン音がかすかに聞こえてきた。優は飛び上がるように立った。細い道を紺色の軽自動車が上ってきていた。

良かった。

軽自動車が優の隣で止まり、窓が開いてばばが顔を見せた。

「買い物ばしよったら、遅くなった。あれ、裸足やんね。怪我すっばい。早く家さ戻らんね」

 優は自分の顔が笑っている事に気付いた。


おわり


本作品はフィクションですが、特攻隊として戦争を生き抜いた祖父の実体験が元になっています。
九三式中間操縦練習機(通称:赤とんぼ)での特攻は祖父の証言と同じ事実が記録されています。

特攻隊は洗脳だと祖父は断言しました。今の日本は平和になりましたか?
確かに戦争はしていません。
ですが、洗脳的な手法で他者の人生を狂わせ私腹を肥やす犯罪集団は存在していて、多くの人を苦しめ続けています。

祖父の戦争体験から時が流れました。個人がSNSで大きな発言力を持つ時代になりました。
私は祖父の生きた証言を映像作品として、より多くの人に語り継ぎたいと考えています。

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