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敦賀総括③

「働かざるもの食うべからず」
勤勉な日本人の心の底には、幼いころからこの意識が刷り込まれていて、それが良い方に働いたり、悪い方に働いたりする。

例えば私は、子どもを産んで仕事を辞めた時、自分で決めたことなのに、一気に無価値感に襲われて、自分でもびっくりした。
「仕事をしている自分」が、こんなにも強固に自分のアイデンティティを作っていたとは思っていなかったのだ。
均衡を欠いて崩壊するジェンガのように、「仕事」と書かれたブロックを一本引き抜いただけで、私はガラガラと崩れ落ちた。
家事や育児も立派な仕事だと頭に言い聞かせても、それがお金を生み出さないものである限り、自分が社会の役に立っている実感は薄い。

子育てが辛かった時期には、肉体的なしんどさももちろんあったが、「働いていない」「何の役に立っていない」という意識が24時間自分を責めていた。
稼げない自分は社会のお荷物だと、人生のどの時期よりも身を削って働いていたのに、そう思い込んでいた。
ちなみに、その時期、私に「仕事をしていない」ことを責めた人間は一人もいない。
自分が勝手に、自分を責めていた。

なぜ、「敦賀総括」というタイトルで、こんな話が出てくるのかというと、この3年間で「稼ぎがない人間には価値がない」という意識が、私の中からすがすがしいほど一掃されたからだ。
それが、何に起因するのか探ってみたい。

一番思い当たるのは、悪気なく言われる「仕事は何?」という言葉だったろうか。
どこで知り合った人にも
「普段は何の仕事をしてるの?」
と、特に年配の女性からは100%、この質問をされた。

専業主婦は、ここでは贅沢であるらしく、家事・育児は仕事にカウントされない。
三世代同居が当たり前なこの地域では、子どもを産んだ女性は、祖父母と保育園をフルに活用しながら、一年以内に職場に復帰していくことが多い。
待機児童はゼロ、希望しさえすれば働ける。

敦賀に来た当初、まだライターでもなんでもなかった私は、正直に何もしていないことを告げると、
「それは、ごくつぶしなことやなあ」
とニコニコ言われた。
「はい、そうなんですよ」
とこちらも、ニコニコ返事したが、「ごくつぶし」がわからない。
あとから、Google先生にコッソリ意味を教わって驚愕した。

【穀潰し】
食べるだけは一人前で、役に立たない人を、ののしって言う語。
定職もなくぶらぶらと遊び暮らす者。無為徒食の者をののしっていう語。

そりゃ驚くだろう。
長い人生で「ごくつぶし」というインパクトのある言葉を聞いたのは初めだったし、あれだけ面と向かってニコニコ言われるからには、まさか悪口だとは思わなかったのに、「ののしられていた」のだ。

しかも、この言葉を言われたのは、一人や二人ではない。
長年働いてきた人たちからすると、仕事もせずにぶらぶらしている人間が存在することが信じられないようで、本当に悪気なく誰からも「ごくつぶし」と言われた。

初回こそものすごい衝撃だったものの、「おはよう」や「こんにちは」と同じくらいのニュアンスで口に出される「ごくつぶし」には、どう聞いても悪口の意図がない。
どうやら「働いてない人」「ニート」くらいの感覚で、単なるカテゴリー名称として言われているようだと気が付いてからは、平気になった。
そして、不思議なことに、何度も「ごくつぶし」と言われているうちに、働いていないことの後ろ暗さが、きれいさっぱり消えたのである。

どういうことなのだろう?
他人が「稼ぎのない自分を責めている」と信じていたときには、何も言われなくてもあれだけ自分を否定し続けてきたくせに。
おそらく、反作用だったのだと思う。
初めて外からかかった圧力に対して、反発したのだ。

「ごくつぶしと言われるほど、私って役に立ってなかったの?!」
とムキになって、自分のしてきたことを振り返り、いいや、私は役に立っていたよ、と、お金にならない貢献というものを改めて認識したのである。
なんとまあ、あまのじゃくなことだろう。
子育て支援の活動をしていた頃、あれだけ「ありがとう」の言葉をもらっても、全く素直に受け取れなかったのに、「ごくつぶし」と言われて、初めて私だって役に立っていたはずだと、自分を肯定できるとは。

以前、こんなnoteを書いた。

裏表のない言葉が、人を癒すこともある。
自分の言いたいことより、相手の言って欲しそうな言葉を探す癖のある私は、敦賀で「正直であること」の本当の価値を学んだのだった。

**連続投稿613日目**

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