裏表のなさに好感を持てるかどうか

「裏表のなさ」というのは、美徳として語られることが多いのだが、実際には「敵意」と勘違いされやすい。

先日、図書館に本の返却にいった時のこと。

2月は利用者が少ないためか、図書館は大型連休をとって、蔵書整理に当てることが多い。私が行った日も9連休明けの火曜日だった。

私の前に並んで本の貸し出し手続きをしているおばさまが、職員さんに話しかける声が聞こえる。

「あんだけ休んだのに、3月にもまた平日の休館日が2日もあるんやろ?ほんまによう休みはるなあ」

聞いていた私はぎょっとした。
「公共機関がホイホイ休むな。もっと働け」と、遠回しに訴えているのかと思ったからだ。

言われた方の司書さんも、めんくらったようで
「え。でも今回の9連休は、以前から蔵書整理と決められていた日で、開館はしてませんでしたが、私たち、ここにきて働いていましたし…」
とごにょごにょ言っていらっしゃる。

言葉から、おそらく地元の人ではないのだろう。
ここいらの方は、関西弁(厳密には違うのかもしれないけれど、私には差がわからないので、関西弁だと思っている)を話される。
標準語で話す人は、よそから来た人だ。

司書さんの緊張した雰囲気から何かを察したらしいおばさまは
「ああ、ちゃうねん。私、本を読むくらいしか楽しみないから、あんまり休まんといてほしいなって思っただけやねん。別に、責めてるわけちゃうで」
と言い、司書さんもにっこり応じた。
「そうでしたか。いつもありがとうございます」
一触即発かと思われた危機は、あっという間に消えたのであった。

こちらに越してきてから、こういうことが割とある。

ジムで仲良くなったおばさまが、うちに遊びに来た時にも
「きったないなあ。掃除苦手なんか? うちがしたろか?」
といきなり言うので、「ぬほっ!」と変な声が出るくらい驚愕した。
普段からそれほどきれいに片づけているわけではないのだが、一応、お客様が来るというので、掃除はした後だったのだ。
それを、家に上がって早々に
「きったないなあ」
と言われて、往復びんたを食らったような衝撃を感じたのだった。

けれど、私の衝撃にお構いなしに、おばさまはにこにこしている。
そして、本気で今から掃除を始めようかという勢いで、
「ここから片付けたらいいんちゃう?」
などと積んである本を見ながら、おっしゃっている。

「いやいやいや、お客様にそんなことさせられません。座ってください。お茶入れますから」
と席についていただいたのだが、
「そうお? 私、得意やねんで」
と腰が浮いている。

そんなことが何度かあって、ようやくわかった。
ここの人たちはウラオモテが全くないのである。
思ったことがすぐに口から飛び出してしまうけれど、それに、付属する嫌味やら攻撃やらの気持ちが欠片もないのだ。

「よく休むね」という時は「休みが多いね」以外の気持ちがない。
「汚いね」という時は「汚いなあ」以外の気持ちがない。

「休んでばっかりで、給料泥棒か?!」
とか
「こんな汚い家に暮らして、どんだけだらしない性格してんねん」
とか

そういう「余計なもの」はこちらが勝手に感じてしまっているだけなのだ。

本気で攻撃の意図がある時は、きちんとそう言う人たちなのである。

なるほど、慣れればこんなに付き合いやすい人たちはいないと思う。
言葉の裏を読まなくてもいいからだ。

私は、自分のことを、かつての流行り言葉でいう「KY」だと思っていた。空気が読めず、その場に似つかわしくない、求められていない行動をとってしまう。そして、私の行動のせいで、さらに冷え込んでしまった空気に気付けない。

それは私のような、マイノリティの特性なのかと思っていたが、全くそんなことはなかったのだった。むしろここでは、いらぬ気遣いをすると、かえって「気にしい」と言われ、めんどくさがられる。

なんということだ。住むところ1つで、こんなにも生きやすさが変わるなんて。呼吸しやすい。肩を丸めて生きなくてもいい。

大都市圏に暮らし、他人の思惑を読むのにきゅうきゅうとして疲れ果ててしまっている人たちには、ここでの暮らしは、ものすごくお勧めできると思う。

何しろ無駄な感情労働から解放されるので、らくちんなのである。

#思い込みが変わったこと


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