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ツチヤタカユキが映画になっていた!

伝説のはがき職人ツチヤタカユキの自伝的小説「笑いのカイブツ」が、知らないうちに映画になっていたことに、今日気付いた。
単館系の映画らしいのだが、幸いなことに近所の映画館で上映されており、近日中に見に行くつもりだ。

オードリーのオールナイトニッポンをずっと聞いているリスナーには、ツチヤタカユキは、懐かしい名前だろうが、一般の方々にはなじみがないと思うので、ざっくり説明しておく。

今でこそ、オードリーのラジオは、トーク中心でめったに音楽もかけない。
しかし、初期のころは、普通のラジオパーソナリティーがそうであるように、リスナーからのはがきやメールを読むコーナーが多めにあった。
ツチヤタカユキは、そのリスナーのネタ投稿コーナーに、毎週怒涛のはがきやメールを送り続け、それらが高確率で採用される、伝説のはがき職人だった。
私は、オードリーのラジオしか聞いていなかったので知らなかったのだが、ツチヤは、他のパーソナリティーの深夜ラジオや、NHKの「ケータイ大喜利」という番組の常連でもあり、その界隈では有名だったらしい。
その、お笑いの才能に注目して「放送作家になればいいのに」とラジオ越しに声をかけたのが、我らが若様・オードリー若林である。
ところがそれに対するツチヤの返信は「人間関係不得意」の七文字。
つまり「超絶コミュ障である僕には、放送作家はつとまりそうにないです」という意思表示をしたわけだ。
ところが、高校を卒業してからアルバイトを転々とし、お笑いのネタを考えることだけに時間と脳みそを費やしてきたツチヤには、他にできることもない。
一念発起して上京し、若林のもとを訪ね、オードリーの座付き作家見習いとして、若林と行動を共にするようになる。

当時、若林がラジオで語ったツチヤのエピソードは、そこそこ強烈で、いくつか覚えている。
たとえば、母子家庭で育ち友達もいないツチヤは、外食をしたことがなく、そのシステムやルールを知らない。
バイキング形式の店で、若林が湯葉を大量に皿に盛ると「そういうものだ」と思って、自分も湯葉を大量に盛る。
焼き肉を食べに行っても、肉の部位の名前がわからないので「好きなものを食べなよ」と言われても、若林のオーダーをそっくり真似をする。
若林には心を開き話せるのだが、三人以上の人がいる所では心を閉ざして、しゃべれなくなる。
バイト先で人間関係を構築しようとか、円滑に回そうとかいう気がまるでなく、時間になると1秒もその場に居たくないため、着替える時間を惜しんで制服のまま退勤してくる。

我らリスナーは、当時、若林が語るツチヤのあまりに「人間関係不得意」で「社会不適応」な様子に、思わず笑ってしまいながらも、がんばれ、がんばれとエールを送っていた。

ところが、これが、ツチヤの側から見ると、不得意も不適応も「笑い話」などではなく、「出来ない自覚はあって、何とかしたいと思っているのに、やっぱりできないこと」なのだ。

このギャップが辛いし、しんどい。

「笑いのカイブツ」は、ツチヤ側から見た当時の話が描かれている。
ツチヤの背景を知らずに映画を見た人にとっては、「なんだこいつ?」であり「気持ち悪い」であり「痛々しい」であり「不愉快」だろう。
しかも、これだけヒリヒリした映画なのに「頑張って最後は成功しました」というハッピーエンドではないため、全く救いがない。
先ほどまで、YouTubeの映画評を一通り見ていたのだが、好き嫌いが真っ二つに分かれる映画のようであった。

その中で、ひとつ、これだけは反論したいと思う意見があった。
「人間って、先のことを見据えて、計画的に生きていこうとするものでしょう?30歳で俺は死ぬ、なんて言ってるやつには、危なすぎて近づく気になれない」
という趣旨の発言だ。

「人間って、計画的に生きていこうとするものでしょ?」と言われても、私は全然ぴんと来ない。
その人の常識でしかないことを、あたかも正しいことのように振りかざされても、困ってしまう。

そもそも、ツチヤの「30歳で死ぬ」という発言をそのまま受け取っていいのかどうかも、本当のところはわからないじゃないか。

バイキングというシステムを、知らなかったツチヤなのだ。
世の中の大半のことに、興味も関心も持たずに来たのだろう。
「計画的に生きる」ためには、計画を立てるための材料が必要だ。
どんな仕事に就きたいか、それは、どうすればなれるのか、ルートが見えていなくては、準備もできない。
しかもツチヤは、成人男性の身近なロールモデルがいない。
母一人、子一人の暮らしの中には、高校卒業後の自分のモデルになりそうな人間が登場してこない。
高校までは、学校という枠組みの中のことなので、想像がしやすい。
制服が変わるくらいで、やることは小学校から大差ないのだろうなと、予測がつく。
ところが、社会に出ると一気に枠がなくなる。
先の予想が、まるで立たなくなる。
一切白紙だ。

そんな中、場面に応じてうまく立ち回れるほど器用でないツチヤが、頼れるのは自分の「お笑いにかける情熱」だけなのだ。
唯一の武器を尖らせるしか、できることはない。
だから、ツチヤは才能を伸ばすことに過剰にのめり込むし、周りとのコミュニケーションは断絶したってかまわないと考える。
孤独に武者修行を続けるツチヤには、30歳で生きている自分の姿なんて、あまりに遠くて見えなかったのだろう。

「30歳で死ぬ」は「30歳までに成功しなかったら死んでやる」という決意表明ではなく、「30歳過ぎた自分が生きているところを、想像できません」という単なる事実なのだろう。

実際、ツチヤは、現在35歳。
死なずに生きている。
目標となる大人がいなくても、白紙の人生に、淡々と足跡をつけている。
超絶不器用な人間が、生きているだけですごい。
無計画でも、不格好でも、生きていてよかったと思う。
生きていれば、自伝が映画になっちゃうことだってあるんだから。

**連続投稿725日目**


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