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「空の巣」について思うこと

今から15,6年前のこと。

大学の後輩が、
「一人娘を幼稚園に入園させたら、日中寂しくて涙が出てくるんですが、これって、空の巣症候群でしょうか?」
と電話してきたことがあった。
私は驚いて
「幼稚園って、今、そんなに長い時間預かってくれるの?」
と訊くと
「いえ、9時から2時まで、水曜はお昼ご飯を食べる前に帰ってきます」
と言う。

心の底からすごい、と思った。
昼間のたった5時間、子どもと離れることが悲しくて泣けるって、とんでもなく愛情深いお母さんじゃないか。
たいていの子育て中の母の心境は、
「早く大きくなってほしい、少しでも子どもと離れる時間が欲しい、自由が欲しい」
あたりが、王道(?)ではないのか?
そこで、思ったまま聞いてみると
「そうじゃないんです。今が寂しいのもあるんですが、いない時間に想像しちゃうんです。子どもが育って、私の元から巣立ったら、今の幸せな生活って消えちゃうんだなあ、もう、この子と一緒に暮らせないんだなあって。そう思ったら、ほんと悲しくて……」
言いながら、電話の向こうで、すでに嗚咽している。

ふたたび驚愕した。
まだ、生まれて3,4年、巣立つまでには10年以上あるだろう。
なのに今、その心配ができるんだ?
「だけど、先輩。10年ってあっという間ですよ。私たちだって卒業してから、あっという間にここまで来ましたよね。きっと、子どもと暮らせるのってほんの一瞬なんですよ。そう思ったら悲しくならないですか?」

申し訳ないけれど、その時は全然わからなかった。
あまりに遠すぎて、想像しようにも、取っ掛かりが無さすぎて。
そもそも、10年後に、私も子どもたちも、無事に生きてる保証があるかどうかすらわからないのに。
大事なのは、今だと思うな、とありきたりなことを話して、電話を切った。

しかし、彼女は正しかったと、のちに思うことになる。

人生は、生まれた瞬間からカウントダウンがはじまっている。
子どもは成長するし、自分は老いるし、死はどんどん近づいてくる。
今が大事なのは、もちろんそのとおりなんだけれど、次々と迫りくるイベントに向けて、想像力をもって心構えをすることは、とても大事なことだったのだ。
それに気づいたのは第一子である、娘が家を出た時だ。

私は、自分が実家から出た時、まったく未練も何もなかったし、出られてよかった、こんなに楽しいことはないなと思った。
だから、子どもたちにも、学生のうちから同じ経験をさせてやりたいとずっと思ってきた。
その上、うちにはアルコール依存症の夫がいる。
早めに家から逃がしてやりたかった。
家族のことなんて忘れて、自由に生きていってほしいと、本気で思っていた。
なのに、自分でもびっくりするくらいダメージがあったのだ。

「私の生んだ子どもが、私の元からいなくなってしまった」

文字にすると、たったこれだけのことなのに、計り知れないほどの悲しみが襲ってきて、しばらく呼吸もできないほど、泣いた。
そして、「これか!」と気づいたのだ。
後輩が、幼稚園に通うわが子の不在を噛み締めながら、想像していたのは、これだったのか。

「空の巣」って、本当にうまい比喩だ。
鳥の巣というのは、ほとんど、再利用されないものらしい。
種によっては、古巣を使ったり、ほかの鳥が使った巣を乗っ取るものもいるようだが、賢い鳥たちは、古巣のデメリットを知っている。
古い巣には、寄生虫がいるかもしれない。
以前、卵やひなが襲撃にあった場所だったとしたら、また同じ天敵に襲われる可能性もある。
そんなリスクを考えたら、自分で新しい場所を選び、1から作る方が良いと判断するのだろう。
空の巣とは、役目を終えた場所で、再び集う場所ではないのだ。
かつての家族は、二度と、同じ屋根の下に暮らすことはないのである。

卵も雛もいなくなった巣の中で、茫然としているわけにもいかず、めちゃくちゃにあがいた結果、今の私がいるので、空の巣も悪いことばかりではないとは思う。
けれど、用無しになった鳥の巣が、風で転がっているのを見たりすると、いまだに感傷的な気分に襲われる。
産んで育てて、産んで育てて、結局、最後はみんな死ぬのに。
そんなサイクルの中で生きる、大きな流れの一部でしかない自分を思うと、一体何のために生きているのかな、とガラでもない考えが頭をよぎることがあるのである。

それにしても、子どもって、すごい存在だった。
あれだけ全身で私を肯定してくれていたのは、人生で、あの子たちだけだったんじゃないだろうか。

**連続投稿354日目**


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