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好きなように歌ってよかったのにね

 今でも覚えている光景がある。

 私たちは、通っていた保育園のホールに集められて、ピアノの伴奏にあわせて保育園の「園歌」を練習している。周りの子たちは、先生に「大きな声で!」と言われて、張り切ってがなり声をはりあげ、もはや歌とは呼べない割れた音をホールの壁にぶつけている。メロディーも何もあったものではないが、先生方も幼児とはそんなものだと思っているのだろう、特に何も言わない。

 私は、先生が見本として歌ってみせてくれる何小節かを、決して聞き逃すまいと緊張し、「さんはいっ!」の合図があると、音を外さないように必死で歌う。周りの子たちが、いかに大声を出して楽しむかと盛り上がる中、ひとり、間違えてはいけないと身を固くしてピアノの音を待っている。

 そーらはあおいよ あかるいよ
 おひさまにこにこ みてるから
 1,2,3,4 てをふって
 さあさあいきましょ げんきよく


 歌はサビにさしかかり、幼児の声帯では出せない音域に入った。必死で高音について行こうとした私の口からは、ひっくり返った裏声が出て、その瞬間、隣にいた先生が笑った。
「この子ったら、裏声で歌ってる」

 私は「先生に笑われた!なにか間違えたんだ」と思い、びくっとしたが、びくっとした顔を見せてはいけないと、とっさにそれをおし隠した。傷ついたという感情を表現をしてはいけない、と思い込んでいたのだ。

 今なら先生の笑った意味も、何となく分かる。周り中、ジャイアンリサイタルみたいなカオスの中、一生懸命正確に歌おうとしている子どもは、その必死さがかわいく見えることもあるのだろう。大人は、子どもがかわいいことをしていると、つい笑ってしまうこともある。今の私はそれを知っている。

 しかし、当時の私にはそんなことはわからない。何かを間違えたのだと思い、そこからは口パクで歌っているふりをした。卒園するまでずっと。間違えて笑われるより、歌わないほうがいいと思ったから。

 たぶん、間違えてはいけないという意識は、入園するずっと前から刷り込まれていたのだろうと思う。楽しむよりもまず、正しくあれ、間違えるな、と。そして、それを私に刷り込んだ母も、同じように間違えるな、傷ついてもそれを人に見せるな、と刷り込まれて生きてきたんだろうと思う。

 全部が終わらないと、その仕掛けが見えない。親子関係もなにもかも、渦中では、根っこがどこにあって、どうすればそれを断ち切れるのかがわからない。終わるころには、見えてもどうにもできないほど、心が離れている。

 人という生き物だけが、ものすごく厄介な子育てをしている。しんどい。

**連続投稿854日目**

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