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天狗党ルート順走 二ッ屋集落~木の芽峠~新保

前回の「天狗党ルート逆走チャレンジ」が、ルートの予習ミスで、全然違うところを走ってしまった。

今回は、部分的にやり直しで、今庄から二ッ屋という集落を通って、木の芽峠を目指す。杣木俣から大坂は、また別の日に。

ルートを確認しよう

これは、二ッ谷集落から木の芽峠を目指す途中の、山の中にあった看板から切り取った地図だ。わかりやすいので、全体図はこちらを見ていただく方がいいだろう。黄色いマーカーを引いたところが、本日、走破する予定のところである。実は、木の芽峠は嶺北側から来ると「今庄365スキー場」を登り切ったところにある。スキー場のメンテナンス用道路が整備されているので、歩いて登らなくても、バイクで登れてしまう。ただ、そのルートは、天狗党が歩いた道とは若干ずれている。ずれたところは、その都度、地図で正しいルートを示すことにして、出発しよう。

二ッ屋集落

二ツ屋集落は、今庄と杉津を結ぶ、県道207号線(通称「今庄杉津線」)の途中で南に折れ、二ツ屋川に沿って遡上したところにある。

今庄杉津線は、①鹿蒜川(かえるがわ)という、細い川が山を削ってできた谷底平野(こくていへいや)を走っている。
川沿いの平らな土地は、ほとんど田んぼに利用されている。

②二ッ屋川は、その鹿蒜川に注ぐ支流であり、かつて、木の芽峠を越える北陸道がこの川沿いに走っていた。

「大いに栄えた」と書いてありながら、「人口250人」。当時の北陸の地力が偲ばれる

見落としそうな小さな看板が、かろうじて二ッ屋集落への道を告げている。

集落内の案内看板は、ここでも「住宅地図」だ。左衛門さんと右衛門さんが、とにかく多いところだということがわかる。世帯主の46%が、左衛門さんか、右衛門さんなのだ。
そして、さらに驚いたのは、木の芽峠のてっぺんにポツンと立っている前川家が、「二ツ屋住居案内板」に載っていたことだ。前川さんは、二ツ屋集落に所属していることになっていたのだ。
ということは、集落の端に住む「坂口源太夫さん」が、前川さんのお宅へ回覧板を回す担当なのだろうか。夏はともかく、冬の回覧板配達は命懸けだろう。大変だ。

集落内を走っていると、おそらく、「谷口さんのご子息」だと思われる方が、家の前で洗車していらっしゃった。地図では一応、峠まで道があることになっているが、果たしてバイクで登れるのかどうか不安だったので、谷口ジュニアさん(仮)に
「木の芽峠までバイクで登れますか?」
と訊いてみた。
「登れるけど、すっごい坂があるから気を付けて」
とのことだったので、気を付けて登ることにする。

旧二ッ屋集落跡

集落を抜けると、途端に道が狭くなる。二車線が一車線になり、川も護岸工事がされていない野生のままの川になる。

そこから、苔むした舗装道路をしばらく進むと、江戸時代の二ツ屋宿場跡が現れる。当時の集落は、山に入るギリギリ手前の、緩やかな斜面沿いに作られていたようだ。今は当時の石垣だけが残っている。

散在する過去の遺跡。「制札場」とは、江戸時代に幕府や藩の命令、知らせなどを立てた場所のことらしい。今でいう、自治会の掲示板みたいなものだろうか。

こちらは、明治天皇の北陸行幸の際、1878年(明治11年)10月9日、旧二ツ屋集落の高野三喜太宅で昼食休憩されたことを記念して建てられた碑。陛下がご飯を食べたくらいで記念碑が建てられたら、日本中記念碑だらけになってしまうのではないかと心配になる。

ここ二ツ屋にも関所があった。おそらく、天狗党が通過した時には、集落内はもぬけの殻で、関所はトラブルなく通過できたと思われる。なぜかというと、以前、木の芽峠の前川家のおじさまが
「天狗党が来たときには、何されるかわかんないからって、みんな逃げたそうだよ。俺のご先祖様も山を下りて隠れていたって聞いてる」
と言っていたからだ。大野あたりでは、歓待されていた様子の天狗党だが、今庄より南では、とにかく恐れられて、通過地の人たちは息をひそめて山に隠れていたものらしい。極寒のかくれんぼは、大変だったことだろう。

しかし、天狗党への対応の地域差は何によって生まれているのだろうか。
私が想像するに、最初の噂を誰が伝えたか、が要因として大きそうだ。今庄より北では、通過したルートが街道を外れた僻地ばかりで、村と村とは、婚姻による親戚関係で緩くつながっていたのだろう。身内が伝える
「昨日、天狗党の人たちがうちに泊まったけど、そんなに悪い人たちじゃなかったよ」
という言葉が、行く先の村々で安心材料となり歓待につながったのではないだろうか。
それに対して今庄は、近隣ではかなり大きな宿場町で、旅人からのうわさがいち早く入るため、関東で暴虐の限りを尽くしていた天狗党の悪い話が伝わっていたのだろうと予想する。

道沿いには、由緒ありげなお地蔵様が安置されていた。

スキー場にはいる

いよいよ、スキー場が見えてきた。
リフトの上の方は、雲がかかっていて見えない。

道が急激に狭くなり、バイクでもすれ違えるかどうか、という巾になる。そしてここから始まる急登。途中でエンジンを止めるとずり落ちそうで写真が撮れなかったのだが、さすがスキー場、とても楽しそうな斜度だった。

激坂を登り切ると、三叉路が見えてくる。
実は、正面に車が通れない道があり、それを含めると十字路だ。
その車が通れない道こそが、天狗党が通過した北陸道だ。看板にも「木の芽峠→」と書いてある。

上の写真は、下の図の黄色い丸で囲んだところで撮影した。私は図の右から赤い道を辿って、ここに到達した。ここから左へ続く水色の道が旧北陸道で、峠を越えて新保まで徒歩で行ける道である。本当なら旧北陸道を歩いて確認するべきだが、私はここを左折し赤い道をひたすら進むことにした。(だって、昨日も近所で熊が出たって言うし、登ってくる間も誰とも会わないし、怖いんですもの。許してほしい)

いよいよ、木の芽峠のすぐ下にある公衆トイレまでやってきた。写真を撮りそびれてしまったのだが、このトイレの30mほど上が前川家である。前川家から新保までは、逆走してルート確認できている。

今回は、二ッ屋から木の芽峠までの道を辿れればそれでオーケーなので、ここから引き返してもよかった。だが、せっかく舗装路が続いているので、このまま進んでみることにする。

木の芽峠から新保まで

少し進むと、モリアオガエルの卵が木に鈴なりになっていた。
至近距離で見るのが初めてで興奮したため、ちょっと触ってみたりした。カマキリの卵を柔らかくしたような感触だった。

その先で道は二手に分かれる。どちらも林道で、左折して栃木峠に向かうと、「余呉高原リゾートYAP」というスキー場に出られる。つまり、左の道は、2つのスキー場をつなぐルートである。
今回は右を選び、新保から敦賀に帰ることにする。

道は落石だらけだ。使われている形跡があまりない。

常時、獣の気配がする。草むらの中に逃げてゆく黒いお尻が見える。4頭のサルの群れが道路の真ん中で何か食べていたりもした。
サルはこちらを気にする様子もなくずっと食べている。怖がって逃げてくれないと、私が怖い。しかし今は、とりあえず熊でさえなければ、何でもいいやという気になっている。それくらい、ちょっと人里離れただけなのに、空気が違うのだ。

外界と隔絶した異世界をひた走り、この道はどこに続くのだろうかと、不安になった頃、森が開けた。

あれ?ここ知ってるぞ。

前にここを通った時は、石柱の左のルートを選び、登山道を通って木の芽峠まで往復したのだった。しかし、柱のどちらを選んでも、結局木の芽峠までは行けたのだ。
あの時私は、自信満々で「地図に表示されている道を歩いている」つもりでいたが、そもそもGoogleMapに登山道は表示されないのであった。つまり、あの時スマホで見ていたものは、今日通った舗装路であり、「林道真谷線」という立派な名前までついている道だった。私が通った獣道のような登山道は、地図上には存在しない道だったのだ。

ここまで見事に地図が読めない女だとは思っていなかったので、自分で驚いてしまった。無謀にもほどがある。前回だって、何となく現在地が地図とずれているような気がしていたのだ。しかし、山の中で電波が安定しないせいだと思ってまったく気にしていなかった。

今後、地図の位置情報と自分の思い込みが著しくずれていた時には、必ず地図を信じ、自分のことはみじんも信頼しないようにしようと心に誓った。それが今回の大収穫である。

天狗党のおかげで、自分の地図を読む能力の当てにならなさがよくわかったのだった。

**連続投稿135日目**


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