飢饉、やってみた <後編>
さて、いよいよ米沢藩の知恵の結晶「かてもの」が、いかにすぐれた書物であったのかを検証するときが来た。
なにしろ、ウイキペディアにはこんな記載があるほどだ。
屯田兵を救い、先の大戦中には全国民を救ってきた福音の書である「かてもの」が、「スダジイは蒸して食べる」と主張している。
ならば、蒸さねばなるまい。
また、主食の増量のためにつかうのが「かてもの」なのだから、当然、「スダジイご飯」も試してみなくてはならないだろう。
しかし、ここで一つ問題が。
私の主食は、オートミール。
レンチン2分で完成してしまう。
歯が欠けるほど硬かったスダジイが、レンチン2分で何とかなるとは思えない。
仕方ないので、スダジイとオートミールを別個にレンジにかけて、あとから混ぜる方法で、主食の増量を試みた。
しかし、この「スダジイで増量したオートミール」は、浸水時間が足りなかったのか、やはり、煎った時同様、硬いものと柔らかいものが混在しており、ときどき、また奥歯が欠けるんじゃないかと思う瞬間があった。
海原雄山が、かつて「美味しんぼ」の中で、美味しいご飯を食べるために、黒い紙の上に米粒をならべて、大きさが同じものだけを選り分けさせる、ということをしていたのを読んだとき
「そこまでする意味はあるの? 多少の違いなんて、絶対わかんないよ」
と思った。
(実際に、そこまでしている人がいたので、リンクを貼っておく)
しかし、あの選別作業は、野生種、しかも、スダジイサイズになると、確実に必要なものだと思う。
大きさ、熟し具合によって火の通りやすさが全然違うのだ。
けれども、何度も言うが今は飢饉。
「食えればいい。腹が満たされればいい」のである。
これはこれで、かてめしとしてはアリだと思った。
栗ご飯よりは劣るが、まあ、食べられないほどまずくもない。
何の味付けもせずに食べて「まずくない」レベルなら、各種調味料で整えれば、かなり美味しいスダジイご飯になる可能性だってある。
「かてもの」に、「飢饉に備えて、みそ、しょうゆをたくさん作っておくべし」と掲載されていたところをみると、調味料に関しては、飢饉の時でもそんなに不自由しなかったのかもしれない。
ならば、我慢せずに、せめて塩くらいふればよかった。
さて、最後はいよいよ、「かてもの」がお勧めする食べ方を試す。
煎る、かてめしにする、は「食べられないことはない」だった。
勝敗で言うなら、限りなく「負け」にちかい「引き分け」といった感じだ。
蒸すのはどうだろう?
なんと、この食べ方は、すべてのスダジイがちゃんと柔らかくなっており、しかも、甘みが引き出されていた。
完全勝利だ。
やはり、「かてもの」はすごい。
飢饉の時でも、よりおいしく食べる知恵を授けよう、という愛を感じる。
実際に、いろんな食べ方を試してみた結果だけを書いているのだろうな。
もしかすると、「かてもの」を執筆するための実験中に、食あたりを起こし、そのまま亡くなった人だっていたのかもしれない。
そう考えると、なんだかすごい本に思えてくる。
昔の知識というのは、科学がベースにない分、つい軽んじたり馬鹿にしたりしがちだけれど、人体実験という最凶にして最強の実験を経てきた成果である「かてもの」は、現代でも信じるに足る書物だと思った。
以上、米沢藩の昔の方々に敬意をささげつつ、おしまい。
**連続投稿273日目**
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