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映画「笑いのカイブツ」読み解き

噂の問題作、ツチヤタカユキの自伝的小説を映画化した「笑いのカイブツ」を見てきた。

先に言っておく。
私はモノローグや会話が少ない映画が、本当に苦手だ。
情景描写と役者の演技や表情だけで、何かを伝えようとする映画は、理解不能なのだ。
日常生活でも、言われないことまで先読み・深読みすることができない。
いわゆる「気が利かない」「空気が読めない」というやつだろう。
そんな私が、自分の気持ちを言葉にしないツチヤタカユキの映画を、原作を読まずに見て想像したことを書き残す。

ネタバレ(という名前の、私の解釈)が多いと思うので、これから映画を見る人は、読まないほうがいいと思う。

まず、全編通して痛々しい印象が続くのは、ツチヤの中身が、不安定な幼い子どものままだからだろう。

子どもは親の愛情を求める。
あれこれと、自分にできそうなことで親の関心を買おうとし、褒められて、役に立つ自分を認めたい。
けれどツチヤは、ツチヤと同じくらい不器用そうな母親からの愛情を受け取りそこねており、常に男を必要とする母親からの、無条件の愛情があてにできないまま成長している。

突出した才能があれば認められるはず、必死で努力すれば愛されるはず、とお笑い修行に打ち込むが、実際は逆で「出る杭は打たれて」世の中には認められない。
やっかまれて足を引っ張られる。
やっと手にした劇場のお笑い台本を書く仕事を、「ネタをパクった」と濡れ衣を着せられて、失ってしまう。

挫折したツチヤに優しくしてくれる彼女ができるのだが、ここでもツチヤは「才能と努力が愛された」と勘違いする。
自分が欲しいものは、相手も欲しいのだという想像力が働かない。
彼女も愛されたいのだ、ということがわからない。
子どもだから。

デートの時間すら「俺は笑いの修行で忙しいのだ」という態度で断り続けるツチヤは、彼女から「夢中になれるものがあってすごいね」と尊敬を得ることに成功するが、裏を返せば「私とは違う人だ」と距離を置かれたということだ。
才能は、興味を持たれるきっかけにはなっても、愛されるのは人間なのだ。

同じ頃、憧れのお笑い芸人からラジオ越しに「俺たちの漫才を一緒に作ってみないか」と声をかけられ、放送作家を目指して上京するのだが、ここでも「才能と努力」しか持たないツチヤは、人間関係で躓く。
ツチヤを認めてくれた唯一の存在であるお笑いコンビ・ベーコンズの西村は、なんとかツチヤを社会人として育ててやりたいと「挨拶」や「チームがあるから仕事ができるのだ」ということを教えようとするが、そのチームに反感を持たれているツチヤには言葉が響かない。
自分を排除しようとする人間と我慢して付き合うことが、何の役に立つのかわからない。
才能もないのに人間関係を円滑にこなせるだけの奴が、西村にとって、自分より上の評価をされていることの意味がわからない。
お笑いの才能で西村に貢献し、愛されるはずだったのに、西村の唯一の存在になれないことが悲しい。
絶望し体を壊したツチヤは、そのままお笑いの道を諦め、地元に帰ってしまう。

優しく受け入れてくれるはずの彼女には、すでに新しい彼氏ができていて、ツチヤはここでも唯一の存在からこぼれ落ちる。
誰にとっても、どうでもいい自分。
どこに行っても、求められない自分。
死のうと道頓堀にダイブしたツチヤは、結局、死にきれず、ずぶ濡れのまま実家に戻る。

全てを失ったツチヤは、ここでようやく自分を見捨てずにいてくれた、母親の不器用な愛情に気づくのだ。
ないと思っていたものが、実はここにあったという「青い鳥」のような話だが、そこに至るまでのストーリーが壮絶すぎて見ているのがしんどい。

ただ、決してハッピーエンドとは言えない終わりなのに、救いらしきものはあった。
ツチヤが自室の壁を壊すシーンだ。
机の横の壁は、長年ツチヤがお笑いのネタ出しをする際、ボケが思いつけない時に頭を打ちつけてきたため、ヒビが入って血痕がついている。
その壁の向こうからは、いつも人の笑い声が聞こえており、ツチヤにとってのある種のユートピアのように描かれていた。
温かい家庭というユートピア。
笑いがあふれる暮らしというユートピア。

ツチヤの母は、息子の傷を手当てしてやれなかった代わりなのか、その壁を丁寧に丁寧にガムテープで塞ぐ。
それに気づいたツチヤは、ガムテープをはがし、壁を蹴り破る。
壁の向こうには、どんな楽しい世界が広がっていたのか?と答え合わせをするように覗き込んだツチヤの目には、こちらと同じような作りの部屋に、洗濯物がぶら下がっているのが映る。
そこにはただ、生活があるだけだった。

それを見たツチヤは、笑い出すのである。
おもろいだけが正義のユートピアなんて、どこにもない。
お笑いだってなんだって、人が作るものである以上、背後には誰かの生活があり、生活があれば、そこには誰かとの関係が生まれ続けている。
気づいた一歩が、大人の始まりだ。
ツチヤは挫折して、少しだけ大人になったのだ。
ヒリヒリ痛い青春映画は、不器用すぎる人間のイニシエーションを描いていたのだった。

**連続投稿731日目**

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