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「宗教は信じてないけれど神様はいると思う」日本人代表の私の気持ちを説明するとこうなる

「あなたは神を信じますか?」
高校時代、街でよく見かけた2人組のモルモン教徒の男性。
彼らはいつも、スーツ姿で自転車に乗って移動していて、どういう基準で選ぶのかよくわからないが、時々、街を行く人を呼び止めて話しかける。
いきなりってことはないから、一応、あいさつとか、自己紹介とかのステップがあったのだと思うのだけれど、記憶に残っているのは、冒頭のこのセリフだけだ。
よほど印象的だったのだろう。

「神様って、信じたり信じなかったりするものだったのか?!」
というのが最初の衝撃だった。

家には神棚があって、榊(さかき)とお神酒(みき)がそなえられていたし、毎朝、パンパンと柏手(かしわで)を打ち頭を下げる祖父と父を見て育った。
正月には、神社に初詣(はつもうで)に行くし、その際に、神棚のお札(ふだ)は毎年新しいものと取り換えられる。
神様がいる暮らしは、日常に溶け込み、信じるも信じないも、とにかくそこに「ある」というか「いる」ものだった。

だから、「信じますか?」と言われても、その意図が汲めなかった。
「あなたは猫を信じますか?」
「あなたはゴリラを信じますか?」
と訊かれているようなものだ。
猫やゴリラの何を信じていれば「信じている」ことになるのだろうか?
猫、ゴリラという生物種の存在なら「イエス」だし、猫やゴリラが私を救ってくれると信じているかどうかなら、「ノー」だ。
神様についても、答えは同じだ。
神様はいる、けれど、いいことも悪いこともしない。
ただ見ている。
見てくださっている、という感じか。

「物心ついてからずっと、家に神棚があったから」という以外にも、神様の存在を実感する機会は多い。

例えば、空に大きな虹がかかっている時。
「こんなにきれいで大きなもの、人間には作れない。やっぱり神様っているよなあ」
と、虹が現れる理屈を知っている大人の今でも、思う。

小さなアリが動いているのを見る時。
「こんなに小さいのに、頭があって、手足があって、それを自在に動かしながら、群れで連携して働いている。神様って、すごいものつくるなあ」
花を見る時。
「細部まで全部美しくて、行き届いていて、しかもこれが生きている。神様って……」

だいたいこんな感じだ。
人には、どうやってもできないものを見せられると、人を越えた何かに思いを馳せてしまうのだろう。

空にも海にも山にも、美しいところにはすべて神様がいる。
四季の美しい国で、美しいものを愛でる余裕のある階層の人間がいれば、アニミズムから多神教が生まれるのは不思議でも何でもないのだと思う。

昔の偉い人が惨殺された現場にも、トイレにも神様がいる、というのは日本人の私でも、ちょっと理解できない。

**連続投稿263日目**

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