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映画『梅切らぬバカ』をやっと見てきた

ずっ見たかった映画をやっと見ることができた。

あらすじや映画評は、いろんな方が書かれているので、そちらをみていただくとして、私は全然ちがう話をしたいと思う。

映画を見ていて思い出したのは、小学生だった息子の校外学習の時のことだ。

学校のある町から海のある町まで1時間ほど電車に乗り、そこから歩いて浜まで行って、地引網を体験させてもらう、というのがその時の行程だった。
当時、子どもらは小学五年生。保護者の付き添いが必要だとも思えなかったが、知らない町で結構な距離をぞろぞろ歩くことになるので、できれば各クラス何名かのお母さんたちに付き添いをお願いしたい、という依頼のプリントが学校から配られた。

地引網体験なんて生まれて初めてだ。生きた魚が網の中でビチビチしているところを見たいに決まっている。
私は喜び勇んで「参加します」に〇をつけてプリントを提出したが、事態は私の予想とはまるきり違う方向に向かって進んだ。私は、この呼びかけを学校からの保護者サービスだと思ったのだ。しかし、実際に集まった人たちは「私も網を引いてみたい!」という能天気な人たちではなく「子どもたちを安全に(誰にも迷惑をかけず、かけられず)送迎する使命感に燃えた人たち」だった。

事前の「顔合わせ」だか「打ち合わせ」だかの会議では、海のある町の駅から浜までのゼンリン住宅地図を取り寄せコピーされたものが配布された。(当時GoogleMapはまだなかったか、あっても使えるレベルのものではなかったからだろう)その地図には、当日歩くルートが赤ペンで描かれていた。
「お手元の地図をご覧ください」
学年主任の先生が説明を始める。このルートのどこに信号があり、どこに横断歩道や歩道橋や地下道があるのか、どのポイントで道路を渡るのがよいのか、詳細に記入されていた。

いやいやいや。クラスの半分が渡ったところで、信号が変わり残る半分が置いて行かれることもあるだろう。何しろ40人学級が4クラス、160人が大移動するのだ。そんな時に、道路の左右どちらを歩くかまで、きっちり指定されたルートだけを守っていたら、先頭と最後尾は相当な差が開いてしまうに違いない。その辺は、行ってみて臨機応変にやらないと、海で待っていてくださる漁師さんにも申し訳ないだろう。

「あのー」
と手を上げようとすると、それより早く眼鏡を光らせた、いかにも教育ママ的なお母さんが声を上げた。
「この地図にはガードレールの有無についての記載がないようですが、その辺りはどうなってますの? それが無いと安全なルートの検討はできないと思うんですが」

ぶったまげた。
私は、そんなの気にしたことがなかったから。
ところが、会議はそれに追従する人たちがどんどん現れ、結局、先生方が貴重なお休みを使って、もう一度「ガードレールを含む現地の安全確認のため」下見に行くことになった。(つまり「先生方の下見は甘い」と、母達からダメ出しを食らって差し戻しになった感じですね)

「登校児童の列に暴走車!児童8人が死亡」などという恐ろしい見出しが、しばしばニュースの一面に踊るのが現代である。ガードレールがついているかどうかは、気にした方がいいのであろうことはわかる。が、「ニュースって、たまにしか起きないからニュースなんじゃないのか?」とは、いつも思うことだ。稀に起きる悲惨な事故を気にするあまり、サクッと出かけて、思い切り楽しんで、サクッと帰ってこようよ、というところを忘れちゃっていいのかしらといつも思う。「安全取り締まり委員会」みたいな人達が、子どもの一挙手一投足に目を光らせている校外学習なんて、私にしたら窮屈でいやだなあと思う。

こういうことを書くと「優先されるべきは、子どもの命でしょう? 安心安全な環境を作ることを目指して何が悪いのか」と言われてしまいそうだが、私は「安心」と「安全」を一緒くたにしていいのだろうか?といつも考えてしまうのだ。「危険を取り除き、生活の中に安全しかないようにしよう」と思ったら、それは誰かの監視なしにはできないことだと思っている。アヤシイ大人はどこにでもいるだろうし、歩道に突っ込んでくる車だって場所や時間を選んでつっこんでくるわけではない。そこら中に24時間監視体制が必要だ。

だが、待って待って。安全は大事だが、そのために自分の思考や判断の余地がなくなるほど、ぎちぎちに管理されるとしたら、それ楽しい? それ安心? と思ってしまうのだ。安全のために「安心=心の安らぎ」を失ってしまうのではないか。実際、会議の席でも一人が「安全」を訴えだしたらいきなり風向きが「命を守れ」というものすごく大きな、反論の余地がない方向に変わってしまい「校外学習を、保護者の協力のもと、どれだけ楽しいものにできるか」について話し合うための時間が消えてしまった。それでいいのだろうか。

「危険を取り締まれ、安全な暮らしを!」と訴えることはもちろん大事。最低限の安全すら保障されていない人たちには、特にそこは大事。命に直結することだから。でも、私たちは結構、安全な環境に暮らしているよね?
これ以上監視を強めてさらなる安全を求めるってことは、何かを犠牲にすることだとは思わないのだろうか。危険を見つけずにいられないということは、いつも、とんでもなく不安だ、ってこととイコールなのではないかと思う。不安な眼鏡で見るから、あらゆるものが怖くて危険に見えてくるのではないのか。
不安は伝播する。そしてそれは、憎しみとか対立とか、諍いのもとを生むものだと思う。

すごく遠回りしてしまったけれど、映画の話に戻ろう。

『梅切らぬバカ』の中にも、住宅街の中にある乗馬教室から馬が逃げたり、グループホームの障害を持つ人が一人でうろうろしたりすることについて不安を感じる人たちが
「私たちは安心安全な暮らしが欲しいだけなんです!」(だからおまえらは出ていけ)
と訴えるシーンがある。そりゃそうだろう。誰だって安心はほしい。馬も障害を持つ人も、安心して暮らしたいと思っているはずだ。「私の安全と私の安心のために、あなたの安全とあなたの安心を差し出せ」と要求する人たちの中に暮らすことは、果たして「安心」なのだろうか。

映画の中では、馬の好きな忠さん(知的障害を伴う自閉症の主人公)が、乗馬クラブの馬を悪気無く脅かすことで怖がられ、グループホームをもっと僻地に立ててはどうかと言われるシーンがある。その時の、加賀まりこさん演じる初老の母親のセリフが、素敵だった。
「あんたの馬だって時々、脱走してみんなを困らせてるだろ。あんたの乗馬クラブももっと僻地に移れって言われたらどう思う? この町の人間があんたの馬を追い出そうとしたかい? お互い様じゃないのかい?」(意訳)

私にとって、この映画は、このセリフに尽きると思っている。
そう、世の中はお互い様なのだ。

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