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たまには僕ヤバの「おねえ」について語ろう

※ヘッダーは桜井のりお先生のTwitterでフリー素材として提供されていたものを使用しました。

つい最近、マンガクロスの連載で読んでいた『僕の心のヤバいやつ』を全巻紙で揃えるという偉業を成し遂げた。基本漫画は連載で追う人間で、読み返す前提で無い限りコミックスでは揃えないーーつまりはよほどの「お気に入り」にならない限り買わないスタンスなのだが、この作品は別だった。他の読者と同様、ご多分に漏れず、火曜日の10:00を餌をねだる駄犬のように涎を垂らしながら今か今かと待ちわびて、読んで数分は情緒をグッチャグチャに掻き回されて放心状態になり何も考えられなくなるわけだが、単行本でまとめて読む味わいもまた格別で、買ったその日は未読の部分も含めて何度も何度も繰り返し読み、気がつけば夜が明けていた。読後しばらくは脳が完全にヤラれてしまい、数日仕事が手につかなかったほどだ。その感想を書いてもいいのだが、それは有志に任せよう。ここでは一推しのキャラクター、市川の「おねえ」について紙幅を割くことをお許し願いたい。

市川の大学生の姉、市川香菜こと「おねえ」は、思春期の中学生男子にとってはありがちな「ウザい」姉である。溺愛する弟にしょっちゅうちょっかいを出すブラコンで、休日と見れば連れ回し、脈アリと思えば徹底的に弄り倒す。その距離感の近さとデリカシーの無さには市川は毎度辟易としている。そうしたイメージから浮かび上がる姉像は、市川と同様のひねくれた価値観を介しない、恋バナ大好きのいかにも快活な「陽キャ」のイメージなのだが、その実態は違う。市川の「おねえ」はまごうことなき陰キャなのだ。

特に山田と相対した時のおねえのニチャついた笑みやリアクションはまさに陰キャオタクのそれであり、これは市川にも内心突っ込まれる始末で、血は争えないことを実感してしまう。余談だが、僕ヤバが白眉なのは、登場キャラクターの性格や性質に併せてリアクションが細かく振り分けられていることで、この暴走しがちなオタク的なリアクションは、作中ではおねえしかやらない身振りである。これを見るとおねえは確かに陰キャっぽさを感じるのだが、しかし一般的な陰キャのイメージからすると、年下とはいえ初対面に近い山田を家に誘い普通に会話するなど、コミュ力は高いように感じるし、服装にもそれなりに気を遣い、友人に囲まれ、たまに話す内容からはそれなりにキャンパスライフを満喫しているように感じる。では元陰キャなのか?という解釈が恐らく成り立つだろうが、それにしては大学デビューといったイメージからもやや遠く、また完全に垢抜けているというわけでもない。だとすればおねえは何なのか?僕はこれは市川のBルート……山田杏奈と出会った以降の日々をAルートと定義するならばの話だが、おねえは今の市川とは別の道筋を辿った、あり得たかもしれない市川の未来の姿の一つなのだ。

秋田からの帰省の帰りの車内で、山田とのことを心配するおねえに対し、市川は胸中で自分と"似たもの同士"であるというシンパシーを抱く。おねえの大学生活や過去については、ほんの一端が明かされたのみで詳しくは描写されていないのだが、作中で描かれていない部分を想像するに、何らかの挫折体験があったと考えるのが妥当だろう。市川もおねえの様子に思い当たるフシがあるということは、それは家庭内で分かるレベルでおねえの様子に影響を与えた出来事があったということであり、即ち後の人格形成に関わる「何か」があったということである。

それが何なのかは現時点ではわからない。ベタな思いつきでは失恋で、それはひょっとしたら市川にとっての山田のような存在がおねえにもいて、市川ほどには上手くいかなかったのかもしれず、片思いのまま終わったのかもしれない。それが市川に訥々と長広舌で語るおねえの恋愛観を形成する出来事だった可能性はある。それ以外では、何かしらの夢や目標といったものに対する、一つの挫折を経験したのかもしれない。帰省の時に背負っていたギター、もしくはベースらしきもの……大学生活で軽音部に入っているのか、はたまた趣味なのかはわからないが、そのことで何かの挫折体験があったのだろうか。詳しいことは分からないが、手に入らないものは傷つく前に諦める。その「怯え」は傷ついた経験のある人間にしかわからない感情であることに間違いはない。

しかしながら、現状のおねえにはそのような「影」はあまり感じない。おねえは陰キャでも陽キャでもなければ、克服した元陰キャというわけでもない。性質は陰キャのままでありながら、自分や周囲に対し、ある程度の「折り合い」をつけた人間なのだ。おねえはわりと洞察力に優れているのだが、それは陰キャにありがちな癖である、人を分析し、よく観察する能力をそのままコミュニケーション能力に転用したものである。おねえが素晴らしいのは、そこに卑屈さがなく、人の感情を慮り、それとなくサポートすることに使っている点だろう。山田の来訪時、いち早くぶら下げたキーホルダーの秋田けんたろうのことに気づき、市川にも山田にも気づかれないうちに自身のそれをそっと外すという気配りを見せる。アルバムを取りに行った時に、市川の部屋のゴミ箱をそれとなく片付けたのもおねえだろう。市川が自身の心境を正直に話さない、ミステリで言うところの「信頼できない語り手」ならば、さながらおねえは暗躍する「真犯人」であり、『僕ヤバ』は単なるラブコメではなく、ラブ・ミステリと言っても過言ではない作品だ。ちなみにこの時のおねえはハイテンションで会話のイニシアチブを握り続けて周りを巻き込んでおり、これは確かに姉が語った通りの「道化」の役割なのである。山田は市川を「優しい」と看破したわけだが、その優しさは恐らくは姉譲りなのかもしれない。僕はそんなおねえがたまらなく好きで、ある程度の諦観を身につけても、シニカルになりすぎることがなく、根底には人の善意を信じる気持ちがあることに感動してしまった。しかしそれを抱くことは、裏切られたり傷ついたりする可能性を孕んでいることでもあり、そうしたことに対する絶望から、弟である市川をなるべく遠ざけたいのかもしれない。

山田との別れ際、姉は市川について語る。市川の面子を潰さないように、加えてそのことによって弟が引かれないような塩梅で、あくまで姉としてのお礼の範囲であることに留意ながら、負担にならない程度に市川のことを山田へと託す。そして二人を邪魔しないよう、一人そっと去るのだ。このおねえのさりげない絆と溢れ出る弟愛に、僕は完全にヤラれてしまった。

おねえはイソップ物語で言う所の狐でありながら、人が「報われること」を諦めていない。僕ぐらいの歳になると、こういう「報われる」話の大切さが嫌というほど身に染みて分かる。現実はとてもつらく厳しいもので、努力は徒労に終わることはしょっちゅうで、善意は空回りし、時に手ひどく裏切られることもある。そんな中で「報われること」物語は何よりも心に響き、また「報われること」の大切さ知っている優しい人間は何よりも尊いものだと思ってしまう。人が青春を過ごし、成長していく過程を描くこの作品において、おねえは誰よりも「誰かがそばにいること」の大事さを知っているのだろう。

人はそれを「愛」と呼ぶ。僕ヤバは市川と山田だけの物語ではなく、脇を彩るキャラクターも最高なのだ。もう一度声に出していおう。市川のおねえは素晴らしい。

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