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愚か者に幸あれ『イエスタデイをうたって』ネタバレありアニメ雑感

※ヘッダー画像は、TVアニメ『イエスタデイをうたって』公式サイトhttps://singyesterday.com/より引用しました。

それは酷く遠回りで、起こりうる事象は人によってはじれったく、あっさりしたものに映るかもしれない。しかし歩みの速度は人によって違うもので、変化もまた同じである。誰しもがすぐに足並みを揃えられるわけでもなく、また変化に対して要領良く対処できるわけでもない。それは時に人を傷つけ、傷つけられ、自身の幼さに苛立ち、不甲斐なさに嫌気が差し、それでも人生は容赦なく続いていく。これは少しだけ不器用で愛おしい、足並みを揃えられない人たちが送る、ほんの一歩を踏み出すまでの、ささやかな「つながり」の物語である。

■刃引きされた反骨心と強調されたぬくもり

アニメ版『イエスタデイをうたって』は、一言で表すなら愛と人生の物語である。当初はその大仰なキャッチコピーに苦笑こそしたものの、見終わった今となってはそれ以外に言葉が見つからない。馴れ合いになりすぎない四者四様の絶妙な距離感。しかし原作とアニメでは解釈、もとい描き方が大きく異なっていて、原作既読組としてその差異には非常に楽しませてもらった。

※『イエスタデイをうたって』1巻99Pより引用

原作ではつかず離れずを基調とした他者に対するドライさや、社会に対するシニカルな反骨心などがあったが、アニメ版ではそれらは綺麗にオミットされており、ここは原作の雰囲気やリリシズムを愛するファンからするとやや賛否が分かれる部分だろう。特に顕著なのはハルの未成年飲酒・喫煙シーンであり、作中でのふかし煙草とビール一気飲みはささやかな社会への反抗である。社会に対して擬態はすれど、心まで許したわけではない。このあたりの社会に対して意地を張る感覚は、ひょっとしたら今の時代では伝わりづらい事柄かもしれない。

※『イエスタデイをうたって』1巻51Pより引用

※『イエスタデイをうたって』3巻197Pより引用

その代わりと言ってはなんだが、アニメ版では原作の根底に流れる優しさを丁寧に掬いあげつつ、今の時代特有の「寄る辺なさ」に対し、作品側から寄り添っていった暖かみのある作風に仕上げている。監督インタビューを読むと分かる通り、僕と同じく原作の連載をリアルタイムで追っていた世代であるせいか、アニメ版『イエスタデイをうたって』は青春群像劇の色が濃い。卒業してレールのない荒野に放り出されたような不安感と、先に列車に乗った同級生たちを見送ることしかできなかったあの感覚。そしてもう二度と戻れない学生だったあの頃への強い憧憬は、卒業した今だからこそ胸を揺さぶられるものがあるのだろう。

■登場キャラクターたちの独自解釈

アニメの解釈で楽しませてもらったのは表現だけではなく、声優によって命を吹き込まれた登場人物たちの印象である。放映当初こそ、タイムマシンでおばあちゃんに会いに行ったのび太のごとく「生きてる!歩いてる!」と半泣きでTVに齧り付いて叫んでいたわけだが、回を重ねるにつれ、彼らが一人の人間として息づいていくのに心の底から感動してしまった。それはさながら自身の胸中にしかなかった思い出と呼ばれる類の感情が、誰かの手によって大ヒット映画になり、TVの深夜放映でたまたまそれを目にしてしまった時のような心境と言えばいいのだろうか?ジワジワと染み渡っていく彼らの言葉や表情に、放送期間中は魅了されっぱなしだった。

※アニメ『イエスタデイをうたって』公式Twitterより引用

特に一番イメージが変わったのは何を隠そう主人公のリクオだ。ハルに対しての言葉の端々に当たりのキツさを感じるシーンがいくつかあり、そのフランクな関係こそが「飾らなさ」ではあるのだが、声付きのアニメでは過剰に映るであろうそれらをばっさりと削ったのはある意味英断だと思う。加えて、リクオの性格を自身の感情を口に出してアウトプットすることが不得手という風に再解釈することで、臆病かつ不器用ではあるが、誠実な人間であることを強調したのは監督ならではの優しい切り口のように僕は感じた。

人によっては優柔不断なリクオの魅力がいまいち伝わらず、彼を単なるコミュ障だと切り捨ててしまうかもしれない。だが彼は要領の悪さこそ目立つものの、自己欺瞞をきちんと自覚することのできる稀有な人間だ。誰もが大人になる過程で身につけてきた処世術で誤魔化すことを良しとせず、掴めない感情の正体を真摯に探り続けるその姿勢は、人間不信で自身を「嘘つき」だと語るハルからすれば非常に眩しく、その素朴な人柄に惹かれるのは当然であると言える。

「リクオがゆーほどあたしはリクオにリソーもゲンソーも持ってないって」
「だって思った通り見たまんまの人だもん」

このハルの人物評が全てであり「思った通り、見たまんまの人」であるのはハルにとってはとても大切なことである。そしてリクオにとっても、あるがままの自分を受け入れてくれた初めての言葉であり、最初からすでに答えはそこにあったのだ。恋愛は好きな部分があって好きになるのではない。それは所詮後付けであり、気がついたら落ちているのが恋と呼ばれるものなのだろう。

※アニメ『イエスタデイをうたって』公式Twitterより引用

同じくアニメを通して印象が変わったのがもう一人のヒロインの榀子である。アニメ版は榀子の尺を大幅に取ってあり、そこには若干の構成の歪さも感じるものの、メインキャラクターの二人から惚れられているせいかその存在感は抜群である。ハル派の僕からすれば榀子は非常に恐ろしく、原作者をして毒だと言い切る天然の魔性と、呼吸のように放つ無自覚なズルさには色んな意味で息を飲んでしまった。

だが、榀子視点で見ると、向けられた好意の全ては唐突で、それらは自身からアプローチした結果ではなく、ほぼ巻き込まれたのと同義である。その点に榀子に責任はなく、いきなり「答え」を求められるのは些か酷ではあるだろう。それに対して徹底して無変化を貫こうとしたのは、一見すると大人しく見える榀子なりのささやかな抵抗で、目まぐるしく変わり続ける人間関係の変化に対し、すぐに足並みを揃えることができる人間ばかりではない。周囲の人間と比較した時の自身の「変化の遅さ」はこの歳になると痛いほど分かる部分であり、野次馬根性や下世話な煽りよりも、共感や同情のほうが勝ってしまった。

※アニメ『イエスタデイをうたって』公式Twitterより引用

原作でハルと同等レベルに好きなのは柚原チカである。カラスを連れた少女がコンビニに現れて欲しいと願った人なら、恐らくふしだらな元カノが急に家に転がり込んでくるという、上記より幾分か「ありそうな」願望を抱いたであろうことは明白だ。これは原作読破済みの貴兄なら誰しもが同意するであろう。アニメ版で一番楽しみにしていたのは柚原回であり、第6話「柚原という女」が放映した時は、それこそ木ノ下さんの言う「古傷」が抉られて悶えてしまった。

柚原自体のイメージは原作とほぼ同じではあったのだが、喜多村英梨の声と地に足のついた演技のおかげで、現実感のあるキャラクターになっていたことに驚いてしまった。モラトリアムに囚われている点は同じなのだが、若干浮世離れした部分のある主要メンバー4人とは明確に異なり「性」に奔放であるが故の諦観と生々しさがある。平たく言えばサークルクラッシャーであるのだが、健全なイエスタデイをうたっての中では直接的な描写はない。しかし冬目景の迂遠に見せかけた台詞に潜む男女の機微は素晴らしく、不可抗力でリクオに押し倒された時、それを「誘い」だと誤解してぽつりと発したたった一言に、我々は撃ち殺されてしまったのである。

「別にいいけど……」

※アニメ『イエスタデイをうたって』公式Twitterより引用

原作では「ギョーザ冷めるとおいしくないよ」と、生活感の中に湿っぽい情念が入り混じる名言を漏らすのだが、アニメ版は「……火止めなきゃ」と、この後に訪れるであろう関係の変化を想起させる、より直接的で生々しい台詞になっている。リクオとならそうなっても構わないという「許し」についついほだされそうになると同時に、視線を終始そらし続けてることからも伝わる「愛の不在」にどうしようもなく心がかき乱される。この時の柚原の心境は、そうなることへの諦めと、リクオも「男」だったことに対する、若干の失望もあったのではないだろうか。しかし転がり込んだ手前、そこを決して口に出さないのが柚原なりの矜持であり、リクオとの淡い思い出をそれなりに大切にしていることの証でもあるのだろう。側から見れば、都合よく利用している/されている関係であることに間違いはない。しかしそこには不思議と打算めいた感情はなく、利用しているが故の割り切りが、奇妙な信頼となって二人の間にあるのがこの話の素晴らしい所の一つだろう。

※アニメ『イエスタデイをうたって』公式Twitterより引用

トリを務めるのは我らがヒロイン、ハルちゃんである。『イエスタデイをうたって』という作品のメインヒロインであると同時に、この作品そのものの雰囲気を決めていると言っても過言ではない。

ハルは一見するとシンプルだが、意外と難解なキャラクターでもある。非常に明るく前向きで、年下ならではの距離感の近さとハイテンションでグイグイとリクオを引っ張っていくわけだが、原作には高校卒業という普通のレールを外れてしまったことによる挫折感や、離婚と再婚を繰り返す母との関係から、巷にはびこる恋愛観に対して冷笑めいた視線があり、素直なようで素直でない、一筋縄ではいかないキャラクターなのである。

※アニメ『イエスタデイをうたって』公式Twitterより引用

アニメ版はもう少し分かりやすく、年相応の無邪気さと、思春期の女の子らしい自信の無さをブレンドさせたキャラクターとなっていて、生き生きと動き回るその姿は、停滞しがちな本作において一服の清涼剤となっている。半周遅れのマラソンランナー、最初から敗北しているヒロインという立ち位置も相まって、その片思いを全力で応援した人も多いだろう。特に演じた宮本侑芽の声はあまりにもハマり役すぎて、野中晴というキャラクターの魅力を120%引き出したと言っても過言ではない。それぐらい宮本侑芽のハルは素晴らしかった。

ハルの初恋に対する考えが僕はとても好きである。リクオが好きな理由を「わかんない。気がついたらそうだった」と答え、そこに頓着はあまりない。ただそう「錯覚」してしまったら、あとはもう走るしかない。そのシンプルさが何よりも好きだ。作中でハルはわりとモテており、しかも2人目の雨宮に関してはリクオにフラれた直後というアドバンテージがありながらも、ハルは決して安易にくっつくことをよしとしない。ハルが求めているのは自身の感情の正体と、自身を変えた初恋というものの「証明」である。恋愛に対して一番真摯だったのはハルであり、だからこそ最後に愛を勝ち取った。余談だが、改変しつつも原作ラストに近い形で終わらせた手腕は見事であり、また二人の物語はバス停で始まりバス停で終わったというのが実にエモーショナルだった。

長々と書いたが『イエスタデイをうたって』は人を選ぶアニメであるとは思う。とにかく焦ったく、ストーリーはなかなか進まないが、好きな人はとことん好きで、自らの青春に楔のように打ち込まれている人は多いだろう。すっかり大人になって、仕事をして帰宅した後に、AbemaTVの先行放送を見て一喜一憂したのは非常に幸福なひと時だった。アニメは終わり、原作も後日談が描かれたので、物語としてはひとまずはエンドマークが付けられた形にはなるのだろう。しかし『イエスタデイをうたって』という作品が僕に与えた影響は大きく、それは決して色褪せることはない。最後は原作にあったこの言葉で筆をおこうと思う。

愚か者に幸あれ

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