人格主義は人間を幸せにするか?

優れた結果は優れた人格から生み出されるという考え方

成功や華々しい経歴などといった功績の如何を個人の能力や人格に還元することは、ただでさえ熾烈な自己責任論をさらに深めるだけで、成功者の傲慢と落伍者への侮辱を強めるだけではないだろうか。社会は本来巨大な連帯機関であり連帯と友愛を推進すべきなのに、個人の功績を当人の資質のみへ還元するような主義、思想は社会の存在意義を希薄にし、成功者と落伍者との分断と憎悪を助長する面の方が大きいのではないだろうか。人格主義的な思想が流布されることによって、一人の幸福な人間が生み出され、同時に十人の不幸せな者が生み出されるだろう。

人間の可塑性と可能性

たとえば、今ちまたでよく言われているような毒親によって著しく傷つけられた精神は、二度と癒えることはない、そのような癒えることのない傷は、人間社会の中ではなにも親によってだけ与えられるものでもない。どのようなことも解釈次第でよい方向へと自らを後押しする糧にできる等々といった台詞は傷ついている人間に追い打ちをかけるだけだろう。人間はたしかに、ガス室に入れられても毅然として祈りの言葉を唱えられる存在ではあるだろう、しかし、致死性の毒ガスを吸わされてなお生きていられる存在ではない。

優位に立っている者をさらなる優位へと導く

二度と癒えない傷など負っておらず、なにか困難を抱えるほどの障害なども負っていない人間にとっては、そうした人格や能力を磨こうとする思想は、なるほど、有用ではあるだろう。しかし、美辞麗句ではもはや救われない人間や、様々な要因で環境や人間関係を自ら選択できる余地を持てない人間にとっては、むしろ追い詰められているように感じるだけではないだろうか。さらにいえば、ほとんど無傷でいるか、あるいはほんの軽傷を負った人間を、ことさらに啓蒙し今以上の幸福へと導く必要性とはそこまで大きいものだろうか?たしかに人が幸福になれればよい面はある、しかし、それ以上に傲慢と卑下とを増大させる面の方が大きいのではないだろうか(功績の如何を人格や能力といった個人の資質へと還元することによって)。むしろ全体を見渡してみるならば、そのような思潮は広まらない方がよいのではないだろうか?

すべて運

努力することができる、努力が認められる、人格を磨くことができる。たとえばこういったことなどは、極言してしまえばすべて運によって与えられたものでしかない。先天性の疾患や障害を負っていない、理解や資力のある両親などが存在している環境、いじめなどにたまたま遭わなかった等々といった。今ある我々のすべてが運と言ってしまうことは、今日の世間一般で、なかでもとくに発言力や影響力を有しやすい成功者にとって不愉快な言い方に違いないだろう(実際、最近流行った「親ガチャ」にも多くの反発が示されているのである)、しかし、このような考え方の方が、健康で成功した人間には謙虚さを促し、病み傷つき零落した人間には慰めとなるだろう。実際、既存の枠の中ではどうあっても報われず、救われない人間が出てしまうことは避けがたいことに鑑みれば、努力や自己責任を盲信することで、功績に人格や能力を無分別に紐付けるような、人々の分断と憎悪を煽りかねない思想が蔓延するよりかは、全体を俯瞰したとき、(すべて運と言ってしまう方が)よりよいものの見方なのではないだろうか。

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