アイキャッチ-未来の学校を考える

未来の学校を考える-Vol.1

学校改革に携わる際に、常に頭に入れていることがあります。
それは、「あるべき教育の未来像」と「継続可能性」です。
変化し続ける社会の中で、教育のあり方も大きく変わっていくのは当然のことで、学校教育だけが現状維持のままで良い、などということはあり得ません。
ですから、未来の学校がどうあるべきなのだろうか、という大きなビジョンを思い描きながら、今をどうするかを常に考えておく必要があるのです。

しかし、社会が大きく変わるから、何でも変えればよいのか、と問われたなら、それも違うのだと思います。物事には「変わるべきもの」と「変わってはいけないもの」が存在し、守り続けることに価値がある事柄が何なのかを見極めることもまたとても重要だと考えています。

例えば、学校でいえば、明治時代、いや寺子屋の時代から考えればもっと昔から、一つの部屋に生徒を集めて学ぶという形式が受け継がれてきました。そして現在も「教室」という四角い部屋に生徒を集めて授業を受けるというスタイルは基本的に継続されてきています。
アクティブラーニングや少人数制クラスなど、授業の形態が変化してはいても、本質的に集団を集めて授業を行なうこと自体は変わっていません。

しかし、インターネットの普及により、その姿に変化が現れてきています。

例えば予備校でいえば、東進ハイスクールでは映像の授業が中心となり、学習者は動画で授業を受けるようになりました。放送大学も古くから映像授業で学習するスタイルです。

学校法人角川ドワンゴ学園のN高等学校はネットで通う通信制の高等学校で、ネット部活、ネット遠足などもあります。さらには2020年にはN中等部も開校するようです。

賛否はあるかも知れませんが、個人的に、この流れは学びの選択肢を広げる上では悪いことではないと思っています。時間の価値も変わっていく中で、学校で学ぶ価値をどこに見出すか、という観点で選択するのなら、ネットの学校という選択肢も一つのあり方であり、その成果は注目しています。

ただ、私が学校に携わる上で、それを選択しますか、と問われたなら、答えはNOです。これはネットの学校を否定するのではなく、純粋に自分自身の学校教育に対する価値観の問題です。学校で学ぶ価値をどこに見出すか、という選択肢は多様であるべきで、純粋に学習知識の蓄積が目的であればネットで十分ですし、自分で学ぶ力があるのなら教科書・参考書があればできるはずで、単位認定の制度のために学校という形態が必要だと割り切るならそれも一つの教育の形であろうと思います。時代の変化は確実にこれを支持していくことになるでしょう。
しかし、私は往生際が悪い人間なので、学校で学ぶ価値をどこに見出すかという点で、「生身の人間同士が集まるからこそできる教育とは何か」を探究する場であり続けることに教室の価値があり、その先に学校にわざわざ通って学ぶ価値が見出せるのではないかと考えています。

ノスタルジーもあるかも知れません。
ただ、それだけでなく、人間は知識、知恵を受け継いできただけでなく、人間同士の対話を通じて気づきを得て、組織・文化を発展させてきた側面も忘れてはいけないと思うのです。
単に対話ならネット上で会話をすれば良い、と言われるかも知れませんが、生身で接する他人同士で同じ時間、同じ空間を過ごすからこそ、適度な距離感、配慮、自己表現を身につけられるのだろうと思います。一時的なイベントだけでは、その時だけの所作で終わってしまい、当たり前の習慣として身につかないので、私学の教育理念の中に人間形成を重視しているのだとすれば、やはり空間と時間を共有し、日常の中で当たり前の基準を共有していくことが必要になるので、そこに価値を見出すなら、やはり生身の人間を集めて教育することが重要になるのだろうと思います。

ただ、それって洗脳教育の手段だろう、と言われる可能性も含んでいます。ですが、教育とはそもそも、人間が人間社会を維持・発展させていくために必要な価値観や知識を次世代に教え、徹底していくことであり、ある種の洗脳の要素を含んでいます。それを洗脳という言葉のイメージだけで全否定してしまえば、倫理観など共有することは不可能です。

人を殺してはいけません。という倫理観を徹底することが洗脳だ、という人は恐らくいないでしょう。これだと分かり辛いので・・・全裸でいることが恥ずかしいということであれば、文化が異なればその考え方も異なります。アフリカのある少数民族では全裸が普通のようで、恥ずかしいという価値観はなかったそうです。ですから、それを恥ずかしいこと、と教えるのはまさに後天的に仕込まれた(洗脳された)価値観なのです。

だから、教育の空間の作り方、徹底度合いによって、人への影響は大きく変わる可能性を持っていると感じるのです。悪く使えば、悪いイメージの洗脳でしょうし、良く使えば次世代に貢献できる人物を育てることに寄与できる可能性がある。

そこで私は折角、人間を学校に集めて教育をするのなら、その可能性を最大限に探究してみたいと思います。だから、未来の学校はきっと、二極化するのかなと感じているのです。

そうは言っても、いずれは知識はネットと電子教材を使って自宅で学び、人間同士の組織形成と感性を対話を通じて学ぶ場として学校に来る、そんな未来になるように思います。ただ、それも教室での授業の価値があると考えているからで、そこに価値はないという意見が大勢を占める社会になっていくのなら、教室で授業をすることそのものが無くなってくことでしょう。

その変化の速度がどう変わるのかは、教室で授業をする教師がライブの授業の価値について真剣に探究する文化が根付くかどうかで変わります。もし、それを教師があっさり放棄したのなら、あっという間に学校は人件費削減の波に飲み込まれ、映像の授業が主流となって、いつかは教室という空間そのものが遺跡となっていくことでしょう。

それは何だか悲しい未来の学校の姿だな、と思うのは私だけではないはずです。

だからこそ、生身の人間が集まって授業をすることの意味、価値をもっと探究していきたいと思います。
では、また。

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