「未来の自分」という読者に向けて。『さみしい夜にはペンを持て』読書感想文

これの読書感想文的なもの。

これってどんな本?

ざっくり言うと、
「言葉を書くことで自己理解をするのって健康にいいよね!」
「言葉を書くためには日記を書くのがいいよ!」
というのを、主人公であるタコの男の子とヤドカリのおじさんの出会いのストーリーを織り交ぜながら、丁寧に述べている。

『嫌われる勇気』古賀史健が、
はじめて13歳に向けて書き下ろした
「自分を好きになる」書き方の寓話

Amazonの書籍紹介文

らしいので、文章も難しくなくサクッと読めた。
この読書感想文では、特に気になったところをピックアップしていく。

採点者のいる文章は「嘘をつく」文章

読書感想文や作文には、それを読んで評価する採点者がいる。
だから、みんな「高得点が取れる文章」を書こうとする。
褒められて、評価されたいから。

私にも覚えがある。
夏休みの宿題で、先生に見せるための日記をつけなければならなかった時。
「こう書いたら先生は褒めてくれるかな」「変な話題を出したら怒られたりしないかな」という気持ちで、言葉も話題も選んでいた。

毎日「今日は〇〇へ遊びに行きました。とても楽しかったです」と、当たり障りのない文章ばかり書く。
やったことが何もない時は「今日は何もしませんでした。明日は何かしたいです」と、なけなしの「前向きな姿勢」で媚びを売っていた。

まあ、そんな日記を書くのが楽しいはずもない。
「高得点が取れる文章」を意識した文章は、ありもしない気持ちを並べ立てた「小さな嘘」にまみれた文章だからだ。

自分しか読まない日記は「自分を好きになる」日記

いきなりこんなことを書いても「???」となるだけだが、とても腑に落ちた言葉だったので拝借。

ヤドカリのおじさんは、主人公「タコジロー」にこのような内容のことを告げる。

読書感想文や作文は、人に評価されるための文章。
誰かの目を気にした、つくりごと。

けれど、自分しか読まない日記は、褒められるためでもなく競争するためでもない日記だ。

その日記をずっと続けていくと、日記の中に「もうひとりの自分」が生まれる。
「もうひとりの自分」は、誰に気兼ねするわけでもなく、自分の気持ちを素直に、とても豊かに話す。
そんな「もうひとりの自分」を見ていると、いつしか「もうひとりの自分」が好きになっていく。

日記を書き続けていけば、そこに「もうひとりの自分」が生まれるんだ。
教室にいる自分のことを好きになれなくても、「日記の中の自分」を好きになることは、できるんだ。

『さみしい夜にはペンを持て』p.240

私にも、思い当たる節がとてもある。
このnoteに、2年近く自分のことをずっと書き続けてきた。
SNSに投げてるので、誰にも見せない日記のように100%他人の目線を気にせずに書いていたわけでもないのだが…

それでも、「これを読んでくれるかもしれない誰か」に向けて、自分の気持ちを嘘偽りなく書いていった時、「ああ、自分はこんなことを思っていたのか」「こういう考えに、こんな答えを出したんだね」と、自分のことが分かってきた。
そして、そんな答えを出した自分が、ちょっとづつ好きになっていった。
いつの間にか、私は「もろこしという人間のファンの一人」になっていたのだ。

どんな文章にも読者がいる。「自分しか読まない日記」の読者は…

自分しか読まない日記を書く時、心に留めておく必要がある知見があった。
それは「どんな文章にも読者がいる」ということだ。

言葉を書くのは、コミュニケーションの一環である。
コミュニケーションである以上「相手に分かってもらう努力」をする必要がある。
たとえば、自分しか読まない日記を「自分しか読まない=読者がいない」と考えて書くと、どうなるだろう?

「相手に分かってもらう」という努力をする必要がなくなってしまうのだ。
結果、日記は「自分の感情をただ吐き出すだけの、言葉の羅列」になってしまう。
それでは、日記は後で読み返した時に「読み返すのを躊躇われる、つまらない言葉の掃きだめ」になってしまう。

では、自分しか読まない日記の読者は誰なのか。
答えは「未来の自分」だ。
数か月後、数年後、その内容を忘れてしまった頃に再び日記を開く、未来の自分だ。

だから「未来の自分という読者」に向けて、相手に伝わるように、書かなければいけない。

この意識は、正直目から鱗だったし、ものすごく大切なものだと思った。「未来の自分という読者」に伝えたいことを、伝わるように、書く。

みんな、分かってほしい。誰が自分を分かってくれるの?

コミュニケーションを取るのは「分かってほしい」からだ。
それは両親かもしれないし、恋人かもしれないし、友人かもしれない。
あの日憧れたあの人かもしれないし、もういない人かもしれない。

もちろん、他人のために言葉を尽くして表現することも必要だ。
人は「自分ではない誰かに分かってもらえた」という経験で、救われるものだからだ。

けれど、それと同じくらい「自分のために言葉を尽くして表現する」過程も必要なのではないだろうか?

「自分のことなんて自分には分からないよ」という言葉もある。
それもまた真理だろう。誰にも、誰かのことなんて分からない。
けれど、自分へと歩み寄ろうともせずに言うその言葉と、自分と対話し、分かり合おうと歩み寄る過程を踏んだ後のその言葉では、重みが違うと私は感じる。

大好きな漫画の新刊を待つように、書く

最初の数日間は、ただ書いていくだけのもの。
しかし、それをずっと続けていくと、いつしか日記は「自分のための、秘密の読み物」になっていくのだという。
「物語の続きはどうなるんだろう?」いつしか期待に胸を膨らませ、次の日記を待つようになる。
それは、大好きな漫画の新刊を待つように、人生にワクワクを一つもたらしてくれる。

ちなみに私は、この話を目にした時「ギア・ファンタジアだぁ…」と言った。
リアルに言葉が出た。

最初は「自分のキャラクターについて、もっと皆に知ってほしい」から描き始めたギア・ファンタジア。
しかし、いつしかそれは「自分という一番の読者に届けたい」に変わっていった。
もっとも物語を愛し、キャラクターを愛し、世界観を愛している「私」という読者へ。

なんてことはない。私にとって日記とは、ギア・ファンタジアだったのだ。

日記は「秘密の読みもの」になってくれるかしら?

この本に出会って1秒「よし!日記書こう!」と言い、その日から日記をつけている。
まだまだ手探りだが、手ごたえは悪くない…気がする。
「未来の自分」という読者に向けて、贈る読み物がまた一つ増えた。
その喜びを胸に、今日も私は筆を執る。

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