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「幸せは自分で掴むもの」は本当か?


「自分の幸せは自分自身で掴まなければならない」という呪いがある。

この呪いのレンズで世界を見ると、人を憎んでしまうことがある。

誰かが私を幸せにしてくれるはず。
そう考えているように「見えた」人が、全て憎らしく思えてくる。

この呪いをずっと解呪したいと思い、自分でいろいろ考えてみたが、どうにも突破口が見えてこない。
そこで、他の人にこの呪いについて相談することにした。

すると、他の人の意見を通して、あることに気付かされた。


そもそも私は「自分の幸せは自分自身で掴んでいる」と思っているが、それは本当か?


自分の人生を振り返ってみる。
すると、決してそうとは言えないことに気がついた。

たとえば、親。
父は心身ともに健康であり、比較的認知が安定している。少なくとも、私が生まれてからはお金に困った経験もなさそうだ。
私が父をそのような人物に作ったわけでは、もちろんない。
全て、父がたまたまそういう人物だったというだけだ。

たとえば、親族。
父方、母方のどちらの親族も私を可愛がってくれたり、そうでなくても、私をいじめたりはしなかった。

たとえば、受験。
教え方のうまい教師に巡り会い、勉学に励んでいる同級生に囲まれ、万全の状態で受験ができた。
何より、試験を受けた人の中に、私以上の水準の結果を出した人がたまたま少なかったからこそ、志望校に入学することができたにすぎない。

たとえば、仕事。
私の周りには、私を蹴落としてのし上がってやろうとするような人はいなかった。
むしろ、私のことを気遣い、何かと心配してくれる人ばかりだった。

何より、生まれた時代。
戦争も終わって久しく、物資も溢れかえるほどあり、生きることが困難になった人のためのセーフティネットも機能している。


振り返ってみると、私が幸せに生きられている世界は、すべて外的要因によってもたらされたものだった。


人生の中で「自分自身の力でどうにかした部分」が、一体どれだけあるのだろう?
全て「運よく、手元に転がり込んできた」ものなのに?


全く努力をしなかった訳ではない。
大学受験や仕事の面接は気合を入れて臨んだし、親族ともうまくやっていけるように気遣いをしてきたつもりだ。

しかし、それで「自分の幸せは自分自身で掴んでいる」と思うのは、単なる思い上がりではないか?
むしろ「なまじ、何かのために努力してきたという自負」があるために、思い上がりに拍車をかけているのではないか?


そう考えると、この呪いもなんとも馬鹿らしいものに思えてくる。

何が「自分の幸せは自分自身で掴まなければならない」だ。
全部、運よく手に入れることができたものに過ぎないのに。


それでも、体の芯からそれを納得できていない自分がいる。

「幸せが運よく手に入れたものにすぎないなら、何も努力しなくてもよかったと言うことか?」
と、不満をたれる自分がいる。

「努力してきたという自負」は、それほどまでに私を傲慢にする。
けれど、努力が全てを解決してくれるなら、私は仕事を辞めることはなかったのだろう。
この考えを改めなければ、私はいつまでも呪われたままだ。


きっと「位置取り」が重要だったんだろうな、と、ふと思った。


運よく幸せが転がり込んでくる位置に、自分を立たせることができたということ。

今までは、それは努力の末に結果的にもたらされたものだったけれど、これをもっと「努力を伴わずに」できる方が、きっとこれからは重要だ。
自分の努力の結果であると勘違いできないぐらいに、力を抜いた自然な状態で、幸せが転がり込んでくる位置に立てること。

「風水」ってこういうことなのかもしれないなー、と、書いていて思った。


それと「幸福であることへの気付き」も重要だと思う。


他の人の言葉をきっかけに、自分を振り返ってみて、自分がどれだけ幸福に囲まれていたかに気付かされた。
どんなに幸福であっても、それに気付かなければ、その幸福は自分の中から抜け落ちてしまう。
失ってやっと気づく場合もある。が、それでは遅すぎる。
幸福を持っているうちに、幸福に気づくのだ。

もし、これらを心がけてもどうにもならなかった時は「運がなかった」と納得して諦めることができるだろう。

きっと、呪いの解呪はこれを繰り返していった先にあるのだろう。
自分自身が努力を必要としなければ、他人に努力を強いる必要もないのだから。


まとめるとこんな感じだ。

「自分の幸せは自分自身で掴まなければならない」という呪いは、「今まで自分は、自分自身の努力によって幸せを掴んできた」という思い上がりからくるものだった。
全ての幸せは「運よく、手元に転がり込んできたもの」にすぎない。
ただ、
・運よく幸せが転がり込んでくる位置に自分を立たせること
・そもそも自分が幸福であることに気づくこと
・それでもどうにもならなかった時は、運がなかったと納得して諦めること
は、自分の力でどうにかできる領域であると思う。
これを下手に努力をせず、力を抜いた自然な状態で行うことで、呪いの解呪に繋がる…かも。


人のレンズを通して、問題を見てみることはとても大事だ。
自分とは別の視点で見てもらうと、今まで気付かなかったことに気付かされる。
人のレンズを借りながら、少しずつでも多角的に物事を見ることができるようになりたい。

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